『思えば遠くにオブスクラ』靴下ぬぎ子

●今回の書評担当者●本屋 亜笠不文律 アガサジューン

  • 思えば遠くにオブスクラ 上 (上) (A.L.C.DX)
  • 『思えば遠くにオブスクラ 上 (上) (A.L.C.DX)』
    靴下ぬぎ子
    秋田書店
    880円(税込)
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  • 思えば遠くにオブスクラ 下 (下) (A.L.C.DX)
  • 『思えば遠くにオブスクラ 下 (下) (A.L.C.DX)』
    靴下ぬぎ子
    秋田書店
    880円(税込)
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〈東京から8993km 思えば遠くにきたものだ〉──。
28歳、フリー映像カメラマンの片爪亜生(かたづめあき)は、火事で唐突に住居を失う。東京生まれ東京育ち、仕事はあったりなかったり、の彼女が、次に住むと決めたのは海外。EUの風景素材を撮る仕事を機に、カメラのレンズがドイツ製だからという思いつきの理由で、首都ベルリンを選んだ。仕事道具のみ抱えて異国に降り立ち、ケバブ屋にて緊張のなかケバブとビールを購入。知らない街で知らない言葉が飛び交う光景に、何気なくシャッターを切る。そんな第1話を皮切りに、亜生の移住生活が描かれていく。

全20話、上下巻完結。このマンガの魅力は、とにかく緻密な描写にある。未知なる異文化に身を置くことで触れるさまざまな「はじめて」を、生活にくまなくズームインして描いて見せてくれる。例えば毎週行われるマーケットでの品揃え、風邪を引いて薬局に行っても薬を出してくれない風習、宅配の荷物は再配達がないからアパートの誰かが預かってくれるスタイル、在留邦人同士で不要品を売り買いする仕組み、等々。中でも注力して描かれているのが食事だ。1話ごとに必ず、異国ならではの食べ物を買ったり作ったり味わったりするエピソードが展開される(目次ページに、1話ごとの料理名が記載されているほどのグルメ愛!)。ベルリン飯だけでなく、異国食材を工夫して手打ちうどんや手毬寿司を創作してみたりと、故郷の味に焦がれる回もたびたび発生する。

亜生はリモート仕事を担いつつ、ワーホリで長期滞在に入る。ベルリンでの住居は、日本でのツテを頼ってシェアハウスに。ここで同居人となる音響アーティストの女性=りか、そしてのちに同居することになる、亜生の大学の後輩でグラフィックデザイナーの女性=たかこ。りかは変人と評され突拍子もない言動を取りがちだが、かなりの仕事人で海外生活を楽しむ才能に長けている。たかこは亜生を大学時代から慕っており、自分の理解者であり同志だと信じている。緻密な描写は人物像においても遺憾なく発揮され、亜生とこのふたりのキャラクターの関係性が、これまた抜群に良い。異国における日本人同士のコミュニティとして深く結びつき、ポジティブに、時に助け合いながら日々を更新していく。

旅マンガ・食マンガとしての効力を発揮しつつ、物語は中盤から、亜生の生き様に視点を向ける。亜生は思いつきで海外移住をしたものの、実は行動や思考の根底に、自分でも正確に把握できていない不安が流れている。カメラとは?「みる」とは何か? ベルリンでのカメラマンという仕事を通じて、哲学的な問いと向き合い、自分の人生を見つめ直していく。それは決して亜生が能動的に意図した行為ではなく、日本から離れた遠い地での生活や文化が、共に暮らす人々との関わりが、亜生の心をやわらかく解き放っていった結果だ。〈未体験のこのすべての 居心地の悪さが心地良い〉――。さまざまな「はじめて」を経て、「はじめて」変化していく亜生の生き様が、読者の心を静かに打つ。

また、マンガそのものの技巧的魅力についても触れておきたい。物語を描く上手さは先述した通りで、画面としても、読む者の目を惹く強力なパワーを放っている。その要因のひとつは卓越した風景描写だ。欧州各地の風景は著者が撮影した現地写真を資料に作画しているそうだが、美しさやリアリティだけでなく、計算された構図や書き込み具合によって、滲み出る旅情を何倍にも増幅させている。もうひとつの要因は、エピソードに合わせて工夫を凝らした演出だ。ほぼオノマトペのみで表現される第7話の表現は必見。第15話の、「遺影を撮る」行為に特化したコマ割りも素晴らしい。思わず感嘆が漏れたほど。

ドラマティックな描写が視覚的な盛り上がりを投げ掛けてくるが、物語それ自体は、ひたすらに平熱で進む。淡々と、丁寧に、海外移住の日々を綴っていく。その細やかさが、ひとりの人間の心の動きを鮮やかに浮かび上がらせる。亜生の人生の追体験、この贅沢極まりない体験を、ぜひ味わってほしい。

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本屋 亜笠不文律 アガサジューン
本屋 亜笠不文律 アガサジューン
2025年、大阪市阿倍野区にて総合新刊書店を開業。喫茶席もあり古本も扱いイベントも行う。需要に応えつつ発見に満ちた品揃えを維持し、まちの本屋が持ち得る機能を多々備えた場所に。……ユーモア溢るる自己紹介を述べたいのに、クソ真面目宣伝と化している。書店チェーン雇用下で人生を全うするはずが、ミラクル大回転を経て経営者に。融資返済と業務過多に追い立てられるも、驚くほどに本が売れるさまは、全ての憂いをぶっ飛ばす効を持つ。書店減少、抗って参りましょう。