『こうの史代 鳥がとび、ウサギもはねて、花ゆれて、走ってこけて、長い道のり』こうの史代
●今回の書評担当者●ジュンク堂書店難波店 中川皐貴
2025年の上半期で一番良かったことは、「こうの史代作品に出会えたこと」だと思う。こうの史代さんのことは「この世界の片隅に」でご存知の方も多いのではないでしょうか。恥ずかしながら私は、マンガはおろか、映画すら見ておりませんでした。
そんな私がこうの史代作品を読むきっかけになったのは、SNS上で話題になった、「描く人へ」という短編から。深雪という中学生のキャラクターが、作者(こうの史代さん)をノートに描くというメタ構造で物語は進むのですが、作中で深雪はマンガを描く意味を「誰かの孤独に寄り添うため」だと考える。読者に寄り添うようなその言葉は、結末でのある描写を通すと今度は作者から深雪(のように描く人たち)へと向けられるエールにも変わる。
この短編にドハマりした私は、次の日には「描く人へ」も収録されている『ヒジヤマさん 星の音 森のうた』という短編集を買っていた。これがまた収録されている全短編が良いので、そこから『長い道』、『街角花だより』、『さんさん録』、『ぴっぴら帳』、『夕凪の街 桜の国』、『この世界の片隅に』と片っ端からこうの史代作品を読んでいきました。
こうの史代作品には、良いようにいえば穏やか、悪くいえばぼんやりとした人物がよく登場する。そんな人物が時折、にこやかなまま怜悧に、ドキリとする言葉を放ったり、行動をとったりする。穏やかさのなかに、しなやかな強さを隠し持っているのが魅力だ。
例えば、『長い道』でのあるくだり。ぼんやりとした人物として描かれる道さんと、その夫の荘介が、怪談話を交互に話す流れになる。荘介が実際に仕事をクビになったことを怪談仕立てで話すのに対して、道さんは無言で、にこやかなまま預金通帳をつき出す。通帳の残額は2000円少々。そして「次は荘介どのの(怪談話をする)番ですよ」と返す。今後の生活が立ち行かなくなることなんて知ったことではなく、それを笑い話(この場合怪談話ですが)にしてしまう胆力。なんて素敵なシーンでしょうか!
他にも、いくつものコマ割りで、ひとつの動作を表していたり、細かい仕草を描いていたりするところもこうの史代作品の魅力だと思う。『街角花だより』収録の「けんか」という短編は、夫婦喧嘩をし、男性が出勤した後の女性の家事を描く4ページのマンガ。女性は洗濯物を干した後、お昼ご飯を食べる。炊飯器を抱えながら、むしゃむしゃとしゃもじでご飯を食べ、鍋からおたまでお味噌汁を「づー」と飲む。そのなげやりな仕草には、思わず笑ってしまうような愛らしさがある。
はたまた『さんさん録』の「aとp」というお話では、起きてからご飯を作るまでの一連の流れがほぼセリフなしで描かれる。日常の、なんてことない仕草に言葉では言い表せない魅力が宿る。
こうの史代作品にどっぷりとハマった私は、先日、京都の福知山で開催されていた「こうの史代展」を見に行った。展示されている絵は一話分全てを展示されているようで、絵だけでなく、漫画として読んで楽しいという至福の時間でした。そこで購入した『こうの史代 鳥がとび、ウサギもはねて、花ゆれて、走ってこけて、長い道のり』は、図録でもあり、作品解題とロングインタビューも収録された充実の1冊。インタビューでは、アンドレ・ジッドの"私はいつも真の栄誉を隠し持つ人を書きたいと思っている"という言葉について語られていて、全ての作品に通じるものを感じました。
"この世でわたしの愛したすべてが どうかあなたに力を貸してくれますように"
『さんさん録』での言葉ですが、多分書店員も好きな本を手渡すときには同じことを思っています。
こうの史代作品があなたに力を貸してくれますように。
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- ジュンク堂書店難波店 中川皐貴
- 滋賀県生まれ。2019年に丸善ジュンク堂書店に入社。文芸文庫担当。コミックから小説、エッセイにノンフィクションまで関心の赴くまま、浅く広く読みます。最近の嬉しかったことは『成瀬は天下を取りにいく』の成瀬と母校(中学校)が同じだったこと。書名と著者名はすぐ覚えられるのに、人の顔と名前がすぐには覚えられないのが悩みです。