『体の居場所をつくる』伊藤亜紗
●今回の書評担当者●TSUTAYAウイングタウン岡崎店 中嶋あかね
個人的な話になるが、私は十年以上前、交通事故を起こし右腕を骨折した。折れた骨が飛び出し大事な神経を傷つけ、半年以上右手を握る動作ができなくなった。「親指とそのほかの指で何かをつまむ」という今まで意識したことすらなかった簡単な動作ができない。頭からどんなに指令を出しても、脳内でイメージしても、傷ついた神経の先には届かない。肘から先は常に重く痺れていて、血行が悪いせいで青白く冷たくて、自分の腕ではないような感覚だった。
担当医からは「神経が再生するのはとにかく時間がかかるので気長に待って。たぶん三ヶ月くらいで動くと思うから」というニュアンスのことを言われたが、当時はその言葉が全く信じられず、腱移行手術の事例を必死に検索したりした。半信半疑でリハビリを続け、本当にぴったり三ヶ月後、人差し指の第一関節にほんの少し力が入ったときのことは忘れられない。私はそのとき初めて本当の意味で自分の「体」を意識した。
事故を起こす前の私は、何でも完璧にこなす母親になりたいと思っていて、義父母含めた7人家族の食事を3食作り、子どもたちを毎日違う習い事に送り迎えし、おやつや洋服も手作りし、ママさんサークルを掛け持ちし、おまけに毎朝5時起きで5キロのランニングをしていた。雨の日は合羽を着て走り、それも無理なら埋め合わせに次の日10キロ走った。今思い返すと狂気の沙汰だが、この本を読んで、あの時の私はまさしくhyper activeだったのだ!と知った。自分で決めたルーティーンに縛られ、それがこなせる自分に酔い、止まれなくなっていた。
私を含めた多くの人にとって、自分の体が自分のものであるというのは当たり前のことだろう。生きるということは、体を使って世界を感じ、それに反応することでもある。健康的な日常を送っているとき、その前提を疑うことはない。だが病気や怪我、あるいは社会的な理由で不自由を感じたとき、「居心地が悪く」なったときに初めて、自分と世界の間にある「体」を意識する。
摂食障害、ALS、ナルコレプシー、身体症状症、人種的マイノリティ。この本で紹介される人々は皆、思い通りにならない自分の体と折り合いをつけながら、なんとか居心地の良い場所を見つけようとしている。
ルーティーンを止めて、昨日とは違う「一回性」を感じとる。介助者が連れてくる思いがけないアクシデントを楽しむ。回復のストーリーに乗っかってみる。動かしにくいグニャグニャの体で、双方向的な介護を目指す。「病気の人」にならず、今生きている自分に目を向ける...
当たり前に世界にフィットしていたら、気づかないことがたくさんある。弱さや不自由さを美化するつもりはないが、「そこに立ってみないと見えないもの」があると思う。わたしは大きな怪我をして初めて「思い通りにならない体」の世界が見えるようになったし、回復(元通りになること)を目指すのではなく、今ある体と付き合っていくという方法を知った。
この一年間の連載の中でも、「ふつう」「当たり前」ではない世界を生きる人の本を何冊か紹介してきた。今不自由を感じている人も、そうでない人も、読んでみてほしい。きっと何かのヒントになったり、勇気づけられたり、するはずだ。
その先に今よりもっと豊かな世界があるといいなと思っている。
一年間お付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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- TSUTAYAウイングタウン岡崎店 中嶋あかね
- 愛知県岡崎市在住。2013年より現在の書店で働き始める(3社目)。担当は多岐に渡り本人も把握不可能。翻訳物が好き。日本人作家なら村上春樹、奥泉光、小川哲、乗代雄介など。きのこ、虫、鳥、クラゲ好き。血液型占い、飛行機が苦手。最近の悩みは視力が甚だしく悪いことと眠りが浅すぎること。好きな言葉die with zero。

