『網内人』陳浩基

●今回の書評担当者●さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜

 陳浩基の短編集『13・67』は1967年から2013年までという香港史における激動の時代を、逆年代順に短編を並べることで巧みに表現した本格ミステリだった。

 事件を積み重ねることによって詳細に社会を描き、伏線を積み重ねることで謎解きを描いた。社会と謎解きとがしっかり組み合わさったことで、近年稀に見る作品だったように思う。
(なお、『13・67』は文庫化の際、謎解きの完成度を上げるため、いくつもの修正が加わっている。単行本で読まれた方も要チェックである)

『13・67』収録の「黒と白のあいだの真実」は雨傘運動の直前、2013年を舞台にしていたが、『網内人』は2015年が舞台だ。政治運動は一定の成果をあげつつも社会は変わらず、貧富の差が激しくなっていくだけ。
 そんななか、父を事故で、母を病気で失った主人公・アイにとって唯一の家族である妹が自殺する。世間に絶望したアイは、ネットいじめによって妹を死に追い込んだ人物を探すため特殊な探偵に依頼をする──。

『13・67』は香港の激動の時代──〝これまで〟を描いた作品だった。それに対して本書は香港の〝現在〟を描いた作品である。

 本格ミステリとして謎解きを突き詰めていった結果、時代や社会を切り取ることに成功した作品は『虚無への供物』や『容疑者Xの献身』などがあるが、本作もまた、その例に漏れない。

 人物描写や社会情勢を、丁寧に、かつ魅力的に記述することで謎解きに説得力を持たせ、その詳細な記述によって読者が思い描いたイメージを終盤でひっくり返す。

 実に見事な手腕だが、精緻な描写は謎解きにとってノイズになる可能性があり、魅力的に社会を描くことは謎解き自体が物語の興を削ぐ可能性がある。
 にもかかわらず、完成度の高いミステリとして生み出されたのは作者のバランス感覚のたまものだろう。


〝網内人〟とはインターネットの網の中で生きる人々、あるいは現実の人間関係にからめ捕られた人々を指す陳浩基の造語だが、この作品のテーマから考えると、網膜(=目)に映ったものをそのまま真実だと思い込む人々、という意味も含んでいるように思える。

 それは目に映った文章を読むしかない読者にとっても同じこと。
 目に映ったものがそのまま真実とは限らない一方、真実もまた目に映った文章の中にしかない。
 何が真実で何が嘘か、作品中でそれらを仕分けるのは名探偵の役割だ。だが現実に名探偵はいない。現実で目にしたものを見極めなければいけないのは読者自身だ。
 では、どうやって向き合えばいいのか──、
 その手がかりは、ここにある。

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さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
1983年岩手県釜石市生まれ。小学生のとき金田一少年と館シリーズに導かれミステリの道に。大学入学後はミステリー研究会に入り、会長と編集長を務める。くまざわ書店つくば店でアルバイトを始め、大学卒業後もそのまま勤務。震災後、実家に戻るタイミングに合わせたかのようにオープンしたさわや書店イオンタウン釜石店で働き始める。なんやかんやあってメフィスト評論賞法月賞を受賞。