『かみがかり』山本甲士

●今回の書評担当者●丸善お茶の水店 沢田史郎

《善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切上げて善い人間になったらどうだ》

 古代ローマの五賢帝の一人、マルクス・アウレーリウスは『自省録』でこんな言葉を遺している(神谷美恵子/訳 岩波文庫)。

 こう言われて耳が痛いのは、僕だけではあるまい。「こんな振る舞いはもうやめよう」「こんな考え方は改めよう」、なんて決意は誰しも経験があるだろう。と同時に、その遂行に挫折して「だから自分はダメなんだ」と己に失望したことも、きっと一度や二度ではない筈だ。そう、僕ら凡人はいつだって、心のどこかで、もっと違う自分に変わりたいと思っている。

 今回紹介する山本甲士は、一般的には"巻き込まれ型小説"の代名詞とされているようだが、実はそれ以上に、うだつの上がらない主人公がふとしたきっかけでバージョンアップを遂げる"脱皮小説"の名手でもある。

 入社を渋る友人の替え玉として会社員生活を始める『迷わず働け』。《奇跡を信じたければ、釣りをするがいい》という言い伝えが残る地方都市で、口承を地で行くような出会いが連鎖する『あたり』。下着泥棒と間違えられた顛末をブログにしたら、驕慢な公権力に立ち向かうヒーローに祭り上げられてしまう『俺は駄目じゃない』。リストラされて行き場を失くした中年オヤジが、公園で拾ったドングリをヒントに新しい自分への一歩を踏み出す『ひなた弁当』。

 どれもこれも、なるほど確かに"巻き込まれ型小説"には違いない。しかし、山本甲士の作品は巻き込まれるから面白いのではなく、巻き込まれたことを潮目の変化と捉えて今までとは違う針路に舵を切る、主人公たちのガッツと冒険心に背中を押されるのが心地いいのだ。

 そんな彼の作品から、入門編として二つの短編集を挙げてみたい。

 まずは『かみがかり』。とある街の小さな床屋。そこで眉を剃って貰った女性とか、散髪して貰った青年とか、主役を務める6人の男女の皆が皆、マッサージを受けている間についウトウトと居眠りをしてしまう。そして目が覚めた時には「いくら何でもコレはなかろう!?」といった外見に仕立て上げられて唖然呆然もう悄然。

 ところが、だ。『人は見た目が9割』なんて新書がベストセラーになったりもしたけれど、見た目が変わったことで、その"見た目"に引っ張られるようにして性格までもが一変する。気弱で、レジの列に割り込まれても文句一つ言えなかった女性が、言うべきことは毅然と言えるようになる。散々パワハラに晒された挙句に鬱を患った営業マンは、かつての上司に胸を張って挑戦状を叩きつける。定年退職した後は、趣味も友人も気力も失くして、ただただ無為に日を送っていた老人は、町内美化に一念発起する。

 その床屋で調髪して貰った誰も彼もが、新しい外見になった自分の中に、未知の自分を見出して思いを巡らす。《髪型や洋服というのは、性格や気分に合わせて選ぶものだと今までずっと思っていたけれど、その逆もあるのではないか》と。そして、今までとは違った行動を、「ちょっと試しに」といった感じでとってみる。すると、案外しっくりくる。「こんな自分も悪くないじゃん!?」。そうやって脱皮を果たした彼らの明日は、これまでよりもほんの少しだけ輝きを増す。

 そしてもう一つ。『ひろいもの』ではその名の通り、たまたま拾った忘れ物や落とし物が単調な日常に風穴を開けて、淀んでいた人生が一新する。ハンドバッグやらサングラスやら手帳やらを拾ったことで、ちょっとした気まぐれを起こす主人公たち。その気まぐれが更なる気まぐれの引き金になり、乗りかかった舟とばかりに、昨日までの自分とは別人のような行動をとる。食欲は食べているうちに出てくるものだとはよく言われるが、『ひろいもの』の主人公たちも、やっているうちにその気になる......。まぁ飾らずに言ってしまえば、『かみがかり』とパターンは一緒だ。しかし、それが不思議に心地良いのは一体何故だ?

 ここで話は冒頭に戻る。即ち、アウレーリウスさんに言われるまでもなく、誰だって心のどこかで、今とは違う自分に変わりたいと願っているのだ。けれど日々の暮らしにあくせくするうちに、「今日から変わるぞ」なんて情熱も今は昔、昨日と同じような今日を半ば惰性で続けている。

 そんな僕らに、山本甲士が生み出す老若男女は教えてくれる。変化なんて、きっかけ一つで始められる、と。大切なのは「変われやしない」と信じ込まないことだ、と。

 俗に、脱皮しない蛇は滅ぶと言う。最近、足踏みしちゃってるなぁという人は、試しにページをめくってみて欲しい。「僕らに出来たんだから、君だって変われるよ」。そんなささやきが、きっと聞こえて来る筈だ。

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丸善お茶の水店 沢田史郎
丸善お茶の水店 沢田史郎
小説が好きなだけのイチ書店員。SF、ファンタジー、ミステリーは不得手なので、それ以外のジャンルが大半になりそう。 新刊は、なんだかんだで紹介して貰える機会は多いので、出来る限り既刊を採り上げるつもりです。本は手に取った時が新刊、読みたい時が面白い時。「これ読みたい」という本を、1冊でも見つけて貰えたら嬉しいです。