『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニエッティ
●今回の書評担当者●田村書店吹田さんくす店 渡部彩翔
―スマホを捨てよ、山へでよう。―
若手の短編作家として輝かしい成功をおさめていた30歳の著者パオロ・コニエッティ。
彼はあらゆる賞にノミネートされながらも、突如スランプに見舞われます。
彼にとって「書けない」ということは、「眠らない」とか「食べない」というのと同じであり、生まれてこのかた一度も経験したことのない虚無感と苦しさでした。
本書は、そんな中で彼が、かつて慣れ親しんだ山での生活へ戻ることを決意し、そこで自分を見つめ直す過程を描いています。
山小屋での生活は、思い描いていたような理想的な逃避ではなく、むしろ孤独と向き合う苦悩に満ちていました。
山奥の静寂の中で、微かな物音に敏感になり、夜の静けさに怯える。
「あたりは耳が痛くなるほどの深い静寂に包まれた」と綴られる場面では、まるで冬の朝、外に出た瞬間に冷たい空気が鼻を抜けるような、澄み渡る感覚を覚えます。その静けさが、心の奥深くまで彼の感情を掘り下げていきます。
都会では無意識に感じていた「自分以外の気配」がなくなり、孤独や不安がより一層際立つ。
孤独を求めて山に向かったはずの著者は、むしろ人との繋がりを求めている自分に気づきます。自分を知るためには、ときに他者との接点がどれほど貴重であるかを、改めて考えさせられました。
また、「知っている語彙では自分の思いを表現しきれなかった」と気づき、「自分のことを語っている言葉を探すために貪るように本を読んだ」という一節が、強く心に刺さりました。
私自身、日常の中で自分の感情を的確に言葉にできないもどかしさを感じることが多くあります。だからこそ、本を読んで「これが私の言葉だ!」と心に響く表現に出会えた瞬間、言葉の力に深く感動します。
自分の中にあったモヤモヤがすっと晴れ、自己理解が深まり、心が少し軽くなる瞬間でもあります。
今は、インターネットを使えば、無数の言葉や表現に触れられます。それなのに、自分を表現する言葉は、かえって枯渇していくような感覚があります。だからこそ、この言葉に強く惹かれたのかもしれません。
山小屋生活を経て、著者の人生は大きく変わることになります。
しかしこれは、単にスマホを手放して山で自然な生活をしたからではありません。
スランプに陥った著者が優先したことは、「山に戻りたい」という自分の心に従って動くことでした。
それは、自分の社会的な立場や毎日の習慣を一旦手放すということでもありました。
手放すことは恐ろしく、勇気のいる決断でもあります。
しかし、彼はその決断によって、それまで気にも留めていなかったものや、思いもしなかったことに心を動かされていきます。
言葉で「自分の心に従うべき」と言うのは簡単だけれど、それを実行できる人は多くありません。だからこそ、著者の行動や言葉が響き、称賛の気持ちを抱きました。
自分で選び取った行動なら、他責にすることはできない。だからこそ、その結果を納得して受け入れられる。
人生の中で、そう何度も「ここ一番」という瞬間は訪れない。
そんなときほどネットで情報を探し、最も無難な選択をしたくなります。しかし、本当に大切なのは他人の意見ではなく、自分の心の声を頼りにすること。それこそが、人生の分岐点で最も重要なのだと思いました。
本書は、単なる自伝ではなく、自分を見失いがちな現代社会の中で、私たちに「どう生きるべきか」を静かに問いかけてくれます。
それは、ただ「外の世界」を追い求めるのではなく、「自分の心と向き合う」ことの大切さに気付かせてくれるものです。
自分自身を、少しずつ許すことができるような、心が軽くなるような気持ちになりました。
爽やかな読み心地と、美しい言葉たちに、読後も山の静けさが心に残ります。
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- 田村書店吹田さんくす店 渡部彩翔
- 田村書店吹田さんくす店に勤務して3年弱。主に実用書・学参の担当です。夫と読書をこよなく愛しています。結婚後、夫について渡米。英語漬けの2年を経て、日本の活字に飢えに飢えてこれまで以上に本が大好きになりました。小さい頃から、「ロッタちゃん」や「おおきな木」といった海外作家さんの本を読むのが好きです。今年の本屋大賞では『存在のすべてを』で泣きすぎて嗚咽しました。