
作家の読書道 第264回: 増田俊也さん
2006年に『シャトゥーン ヒグマの森』で『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞してデビュー、2012年に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で大宅壮一ノンフィクション大賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞、また北海道大学柔道部を舞台にした自伝的小説『七帝柔道記』とその続編『七帝柔道記Ⅱ』が人気を博している増田俊也さん。幼い頃から知識欲旺盛な本の虫だった増田さんが、その時々で影響を受けてきた本とは?
その3「高校から柔道を始める」 (3/10)
――高校時代はいかがでしたか。
増田:自由な高校だったからとにかく授業は聞かなかったですね。というより授業にあまり出なかった。他の生徒もそういうやつが多かった。留年しないために1単位あたり何回まで休めるという情報が生徒間で出回っていて、ぎりぎりまでサボった。私服だったので、1年生の時は外の喫茶店に行って本読んでたりパチンコ屋行ったり映画を観に行ったり。2年生からとくにひどくなった。で、ときどき授業に出ると「刑事コロンボ」のノベライズをずっと読んでた。もちろんドラマのほうも当時は再放送でやってましたから見ました。小学生の頃はNHKで観てて。あれはいろんな人が脚本を書いているんですよね。スピルバーグが監督の回もあった。それくらいいろんなバリエーションがあって、伏線の張り方もいろいろだった。ノベライズもすごく工夫して書かれてましたね。それから初期のスペンサーシリーズも高校2年の授業中に読むようになった。『初秋』とかね。
――旭丘高校では柔道部に入ったんですよね? 授業をさぼりながらも部活には出ていた、という感じですか。
増田:そうそうそう。僕は田舎の中学から入学したから、名古屋市内の子供たちと差があって、高校に入ったらまわりができすぎて驚いた。最初の定期テスト受けた時、自分の平均が75点くらいで、これはまあまあの位置だろうと思ったら、学年の平均が90点代だったの。それで駄目だと思いました。そこからはだいたい学校に行くのが11時くらいで、午後3時に柔道場に行っていました。旭丘は教師も旭丘OBばかりで午前中は先生自体が休講にしちゃうから(笑)。長閑な時代でした。当時あった柔道場は古い木造2階建てで広くてね。部室も8畳か10畳くらいあってキッチンみたいな大きなテーブルがあって椅子があって寛げるの。屋根裏部屋もあってロフトみたいになってた。畳も敷いてあるからすごく快適で、部員はみんな授業さぼって部室に来てごろごろしながら本を読んでた。
柔道を始めたばかりの高校1年の時に僕が部室で読んでいたのが、岡野功先生の『バイタル柔道 投技編』という技術書です。当時は基本的な技の入り方や投げ方を紹介している本ばかりで、応用的なことや試合で使うときの実際の動きをダイナミックな連続写真で作った本書は画期的なものでした。
でも当時、旭丘高校の柔道部師範は「この本はおまえらには早すぎる」と言って読むのをすすめませんでした。それくらいレヴェルの高い技術書です。でも「投技編」は高校時代に繰り返し読んで研究しましたし、『バイタル柔道 寝技編』は北海道大学に入って七帝柔道をやるようになってから研究するようになりました。
――柔道部の稽古は大変でしたか。
増田:旭丘の柔道部は愛知一中以来100年以上の伝統があって、昔は全国制覇もしていて、いろんなOBが顔を見せたりしてました。合宿も高校としては本格的なものだった。僕は歴史も好きだから当時から柔道の歴史の本を図書館で漁って読んでました。三船久蔵先生の『柔道の神髄』とか嘉納治五郎先生の伝記とか。そして当然のことながら専門誌の「近代柔道」を毎月ボロボロになるまで隅々まで読んで柔道マニアになってた。練習はきつかったけど、僕はなぜか受け腰が強くて、返し技が巧い選手でそれなりに強くはなれたと思う。3年生の時にインターハイが愛知県で開催されることになって、体重別個人戦も団体戦も愛知県に2枠与えられたんです。それで僕は1年生と2年生のときの手応えから体重別はもしかしたら代表になれるんじゃないかなと甘く思ってた。今から考えると、ほんとに甘いんですけど(笑)。県予選で東海高校の1個下のやつに投げられて、一本負けしちゃったんです。僕は立技で投げられた記憶があまりなかったんですが、そいつに綺麗に投げられた。あとで聞いたら彼は柔道家の息子だったらしいです。そいつは医学部へ行って、いま医者やってますけど、30代のときに共通の友達の結婚式で久々に会って「君に運命変えられたのに君は医者かよ。柔道でも勉強でもかなわないとか勘弁してくれよ」と言ったら笑ってました(笑)。
僕ははじめは早稲田の体育に行くつもりだったんです。当時はスポーツ科学科がまだなくて、教育学部に体育学専修というのがあって、そこにほかの運動部の先輩が指定校推薦で行っていました。それで自分でもそのつもりでいたら大会で一本負けして、全然推薦なんて話にならなかった。ほんとに箸にも棒にもかからない。いろいろな意味で考えが甘かったんです。「俺ってこんなに弱いんだ」とそのとき初めてわかった。
その数カ月前、2年生の終わりの春休みに名古屋大学柔道部が近隣の学校を集めて大会と合同練習をやった時に、七帝柔道という寝技の柔道があると聞いていたんです。なので3年生のそのインターハイ予選で投げられて負けて、大学では旧帝大へ行って寝技を中心にやろうと思った。投技は才能が必要だけれど寝技は努力がものをいう世界だと名大生に言われて。俺は才能ないけど寝技でどこまでできるかやってみたいと思った。
――七帝柔道は戦前の高専柔道を受け継いだ柔道で、七つの旧帝大が集まって年に一度大会が開かれているんですよね。『七帝柔道記』にも書かれてありますが、その合同練習の時に井上靖の自伝小説『北の海』で高専柔道が描かれていると教えられて、すぐに読んだそうですね。
増田:そうそう、名古屋大学のキャプテンとかにその本を薦められたんです。その本に大天井という豪傑が出てくるんだけれど「ここにおられる名古屋大学の師範、小坂光之介先生が大天井のモデルです」と言われて「すごい」と思って帰りに名古屋市内の本屋で買って帰って朝までかけて読んじゃって。ものすごく魅力的な世界でした。
それで七大学のどの大学を受けるかとなった時、受験勉強してなかったからどうせ最初はどこ受けても落ちるから、一番遠い北大にしたんです。九大も昆虫で有名だったから少しだけ迷ったけど、やっぱり大きな動物がやりたいと思った。まだ青函連絡船があったころだから、北海道の観光ブームも始まる前。温暖化も進んでいないから3月の頭なんて札幌でも雪が2メートルくらい積もっていて、街中のホテルの窓から見ても一面真っ白で。受験当日も大雪が降ってて、雪が踏み固められてアイスバーンになった道を雪まみれになって歩いて行きました。