
作家の読書道 第264回: 増田俊也さん
2006年に『シャトゥーン ヒグマの森』で『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞してデビュー、2012年に『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で大宅壮一ノンフィクション大賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞、また北海道大学柔道部を舞台にした自伝的小説『七帝柔道記』とその続編『七帝柔道記Ⅱ』が人気を博している増田俊也さん。幼い頃から知識欲旺盛な本の虫だった増田さんが、その時々で影響を受けてきた本とは?
その7「スペンサーシリーズへの思い」 (7/10)
――大人になってからの読書で、とりわけ好きな小説家はいますか。
増田:ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズ。伴走期間が長いですからね。半年に1冊のペースで出ていたし。僕はパーカーが亡くなった時に「本の雑誌」に「さよならスペンサーなんていわない」という追悼文を書いたので、えらくハードボイルド好きの作家だと誤解されているようですが、僕はパーカーはハードボイルドの書き手ではないと思っています。
彼は2024年の今のような世界を予見していた、非常にリベラルな作家だったんじゃないかな。彼が造形したスペンサーという人物を"リベラリストのパーカー"とする視点で見ると違う物語が見えてくると思うんです。スペンサーの軽口も、相手を翻弄するためのマッチョな言葉ではなくて実は自嘲なんじゃないかと。
――スペンサーというと料理好きでビール好きで野球好きな私立探偵というイメージもありますが、それだけではないという。
増田:シリーズのなかで好きなのは、もちろんファンに一番人気の『初秋』を外す気はないですよ。先日書庫を整理していてたまたま見つけた『初秋』を読んで号泣してしまったほどです。でも僕が推すナンバーワンは『レイチェル・ウォレスを捜せ』です。
この作品では、女性人権運動関連の書籍を出す出版社からスペンサーが仕事を依頼されるんです。時代の先端を往くフェミニストでレズビアンのレイチェル・ウォレスの護衛です。でも出会った瞬間からレイチェルは筋肉の塊、男性誇示そのものに映るスペンサーに嫌悪感を抱きます。そのなかで反フェミとか反同性愛の団体に講演を妨害されたり、脅されたりする。そのたびにスペンサーが腕力で解決するので「非暴力」を標榜するレイチェルは怒り心頭に発してスペンサーに強く抗議し、強く軽蔑します。
どんどん2人の間の溝が深まっていき、遂にスペンサーは馘になる。そんな時にレイチェルが誘拐される。そこからのスペンサーの活躍がすさまじく、あらゆる妨害と戦って捜し出して救出するんですが、その時にスペンサーもレイチェルも抱き合っておいおい泣くんですよ。2人とも、もともと暴力論とか男女論なんかでぶつかってたくせに、おいおい泣く。僕も泣いた。ハードボイルドとかミステリとは違うキュンキュンくるラストです。真反対の考えを持つ2人の性別をこえた友情が泣けました。そして仄かに香る互いの恋愛感情みたいなもの。最後まで絶対に2人は口にしないんですが、だからこそなんともいえない感覚です。それをね、最後はスペンサーの恋人スーザンもわかっててワインを片手に横で見てる。いい感じのラストですよ。
『失投』も好きです。奥さんがもともと売春をやっていたことを「表沙汰にするぞ」と裏社会から脅されて八百長をやってしまうメジャーリーグのピッチャーの話です。彼が何かで揉めてスペンサーに殴りかかるんですが、元ボクサーのスペンサーがこれをあしらってボコボコにしてしまう。奥さんの眼の前で。僕はそのピッチャー側に立って読んでいたんで自分が殴られている気がしました。ほんとうに苦しくて痛い作品でした。いま読んだらまた違う気持ちになるかもしれませんが。スペンサーシリーズで他に好きなのは『ユダの山羊』『キャッツキルの鷲』とかです。
そういえば訳者の菊池光さんが『羊たちの沈黙』も訳しているんですよ。数年前に新訳が出ているんですけれど、僕は菊池さんの訳の『羊たちの沈黙』がすごく好きなんです。スペンサーシリーズの時はあまりパーカーの文体と合っていないと思ったけれど、トマス・ハリスの文体と菊池光さんはすごく合っていて、文体と呼吸の勉強になるからよく読み返します。調子が乗らないときに音読すると仕事のやる気がでることもある。原著と照らし合わせて読んで「この部分はこういう言い回しなのか」と英語の復習をしたこともあります。