『火星で生きる』スティーブン・ペトラネック

●今回の書評担当者●梅田蔦屋書店 三砂慶明

  • 火星で生きる (TEDブックス)
  • 『火星で生きる (TEDブックス)』
    スティーブン・ペトラネック
    朝日出版社
    1,782円(税込)
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 空を見上げても赤い点以上には見えない星、火星に、人々(特にアメリカ人)は想像をかきたてられてきました。

 映画の古典「市民ケーン」を監督したオーソン・ウェルズは、まだ駆出し時代の1938年に、H.GウェルズのSF小説『宇宙戦争』を翻案したラジオ劇「火星人襲来」を放送して、全米100万人の聴収者をパニックにおとしいれました。この事件をもとに奇才フレドリック・ブラウンはSFの古典となった『火星人ゴーホーム』を執筆。また、「SFにABCあり」といわれ、小惑星の名前にもなったブラッドベリ(ほかの二人はアシモフとクラークです)は火星をこよなく愛し、「できることなら火星に埋葬されたい」(『ブラッドベリ、自作を語る』)とまで語っています。そして、さらに自著『火星年代記』を念頭に「二百年後の火星で、僕の本が読まれるだろう」と素敵な予言を残しました。

『火星で生きる』を読んで驚いたのは、はるか彼方の火星にどうやって「行くか」ではなく、どうやって「住むか」を本格的に検討していることです。漠然と200年後と思っていた人類の火星到達は、あと20年後にさしせまっており、しかも火星を目指す動機が理想やロマンではなく、単純に「お金」だったことには心底驚きました。

 個人的には火星が儲かるとはどうしても思えませんが、カリフォルニアのゴールドラッシュもかくやとばかりに民間の宇宙開発競争には、アマゾン、グーグル、マイクロソフトなど名だたる企業の経営者が名を連ね、莫大な資本を投入しています。中でも突出しているのが自動車産業に革命を起こしたテスラモーターズの共同経営者、イーロン・マスクです。2002年にスペースXを立ち上げたマスクは、火星に行くのにNASAは必要ないと断言し、テスラモーターズの電気自動車で110年近い自動車産業を根本的に変えたように、宇宙に行く方法も変革しようとしています。マスクは、スペースXが人類を火星に連れていくと宣言し、すでに火星への片道切符の値段も算出し終えています。

 もし仮に何かの間違いで、火星への往復切符を手にすることができたとしたら、果たしてどんなライフスタイルが私たちを待っているのでしょうか?

 そもそも火星と地球は本当に遠くて、その距離はざっと4億キロ。どれだけ頑張っても片道250日を下回ることはなく、宇宙船でもし何らかのトラブルが起きたとしても地球からの通信に21分かかります。問題を報告して解答を得るまでに最低42分間。この時点で、もはや私が生きて火星にたどりつくことはなさそうですが、火星の大気と太陽放射線や宇宙放射線に備えるために、特別な住居と衣服も必要で、そこで生活するためには、ほとんどの時間を特殊な防護壁か地下空間で過ごさなければなりません。

 また、火星の一日は地球よりも39分25秒長いだけですが、火星の1年は約2倍の687日あります。日差しは札幌の冬の弱い日差しぐらいで、平均気温は-63℃。食事は、動物は植物よりも育つ効率が悪いためベジタリアンは確定で、もしチャンスがあったとしても、キノコや昆虫が食卓にのせられるかがボーダーライン......。

 本書の大半は、私たち人類がすでに火星を開発する能力をもっていること検証する驚愕すべき内容ですが、何より感動したのは、火星に移住することへの情熱です。読めば読むほど行きたくなくなる火星に、何があっても行こうとする動機は、もはや収益の最大化を第一原理に置くビジネスでは説明できません。むしろ、人類がアフリカを出発して以来受け継いできた、知らない場所に行ってみたい。ただ、それだけなのではないかとすら思わせてくれます。何もかもを忘れてむさぼるように読むことのできる、究極の移住ガイドブックです。

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梅田蔦屋書店 三砂慶明
梅田蔦屋書店 三砂慶明
1982年西宮生まれの宝塚育ち。学生時代、担当教官に頼まれてコラムニスト・山本夏彦の絶版本を古書店で蒐集するも、肝心の先生が在外研究でロシアに。待っている間に読みはじめた『恋に似たもの』で中毒し、山本夏彦が創業した工作社『室内』編集部に就職。同誌休刊後は、本とその周辺をうろうろしながら、同社で念願の書籍担当になりました。愛読書は椎名誠さんの『蚊』「日本読書公社」。探求書は、フランス出版会の王者、エルゼヴィル一族が手掛けたエルゼヴィル版。フランスに留学する知人友人に頼み込むも、次々と音信不通に。他、読書案内に「本がすき。」https://honsuki.jp/reviewer/misago-yoshiaki