『文字渦』円城塔

●今回の書評担当者●さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜

 横丁カフェの、この『文字渦』の書評を読んでいるあなたに向かって「今あなたが読んでいるものは何か?」と問いかけたら、「〝今あなたが読んでいるものは何か?〟という文字だ」という答えが返ってくる──『文字渦』はそんな作品だ。

 この短編集における文字とは、意味を内包した記号というよりも、線で描かれた図形そのものとして扱われる。その上で生命力に満ち、様々な方法で生存しようとしたり、進化や繁栄、あるいは衰退する過程=文字の歴史が描かれていく。

 そのすべてがわかりやすく描かれているわけではないため、読者を選ぶ作品なのは間違いない。
 だが読者の読解を拒絶しているわけでもない──というのが、円城塔は超一流のホラ吹きである、という事実に現れている。
 本書では漢字の成立や進化について、史実をベースに空想や妄想などを混ぜ合わせ、もっともらしい大嘘──偽史がごく真面目な顔で書き連ねられているのだ。

 本書における文字の歴史は、中国史や仏教をはじめ、生物学や地学、情報学、古今和歌集や土佐日記、犬神家、ポケモン(?)と様々な知識から組み立てられたものが多い。最終的に奇妙なところに到達するのも、その偽史から丁寧に論を積み重ねていった結果だからである。

 AからB、そしてBからCへの常識的な展開を示した上で、ぱっと見は極端に見えるCからDへの進化も当然だろうと嘯く。
 その積み重ねが堅実であるがゆえに、終盤の飛躍した展開は読者が持つ空想の翼を羽ばたかせる──人間にはこんな地点まで想像することが可能なのか、と感心させられるのだ。

 普段、人間の想像力には枷がはめられている。
 漢字とかな交じりの日本語文章にしろ、ルビという日本語特有の表現方法にしろ、誰かが勝手に決めた一般常識というルールに囚われている(そのおかげで安心して作品を楽しめてもいる)。
 だが本書を読み、その安寧と引き換えに檻を出れば、こんなにも豊穣な可能性が文字にはあるのか、と視野が広くなるはずだ。

 中でも「誤字」におけるルビと親文字との確執の起源を〝そこ〟に求めるなんて、人間の想像力に限界などないのでは、とまで思える。そんな「誤字」のルビが「金字」を経て「かな」に至る展開など、実に感動的だ。
(ただ坂嶋竜として、本作のルビについて語り出すと原稿用紙が100枚あっても足りないため、これ以上は割愛する)

 本作のタイトル元である中島敦「文字禍」では、文字の精霊を探る者には禍(わざわい)がふりかかった。
 しかし。
 この『文字渦』にあるのは新たな文字の可能性であり、それは小説に内在する可能性でもある。禍福はあざなえる縄のごとしと言うのであれば、小説を愛する者にとって禍が佳となり「文字佳」とならんことを願う。

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さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
さわや書店イオンタウン釜石店 坂嶋竜
1983年岩手県釜石市生まれ。小学生のとき金田一少年と館シリーズに導かれミステリの道に。大学入学後はミステリー研究会に入り、会長と編集長を務める。くまざわ書店つくば店でアルバイトを始め、大学卒業後もそのまま勤務。震災後、実家に戻るタイミングに合わせたかのようにオープンしたさわや書店イオンタウン釜石店で働き始める。なんやかんやあってメフィスト評論賞法月賞を受賞。