『霧越邸殺人事件』綾辻行人
●今回の書評担当者●八重洲ブックセンター京急上大岡店 平井真実
家の前の小高い山の上に突如館が出現した。小説の一節ではなく、先日体験した現実の出来事である。残業して帰ってきた夜、疲れたなと思いながらあと少しで家に着くタイミングでふと空を見上げた時、見たこともない大きな館が出現したのである。真っ暗な闇の中にぽつんと一つだけ灯る明かり。朝晩と毎日通っているのに工事の音、しなかったよね?!と混乱しつつ帰宅した。幻でもみたのか、と半信半疑で家に入りつつも、すぐさま窓に近寄ってカーテンを少し開け、ひっそりと覗いてみた。やはりそこに存在している。いや、待って。ちょっと前にスーパーに行く途中に見える別の山を夜にたまたま見上げた時、木立の奥に見えた光がまるで大きな洋館に灯る光のように見え、霧越邸...!と興奮したのもつかの間、次の日昼間に通った時小さな普通のアパートでがっかりだったということがあったばかりじゃないか、きっとこの館に見えるなにかもそうに違いない。
昔から山の中にある館や湖のほとりにあるホテルを見ると、霧越邸だ!とワクワクしてしまう癖がある。北海道を横断するような形で旅行した時、距離感がわからず無理なスケジュールでホテルを点々と取ったためほぼ車を走らせるだけの旅行となった。真夜中に真っ暗な山の中を車でひたすら走り、ふと開けた木立の隙間から湖が見えその奥に大きなホテルの明かりが見えたとき、ああ、霧越邸がここにあった!と思ったあのホテルが一番心に残っているのだが、あれはどこだったのだろうか。
そんなことをその夜に思い出し、小説の中の霧越邸を何年かぶりに訪れようとふと思った。いまだに思い出すその館は、書店員になってすぐに夢中になって読んだ1冊で私を本格ミステリの世界に引き込んでくれた作品だった。
私の記憶の中の『霧越邸殺人事件』は新潮文庫。厚くて黒い表紙の少しおどろおどろしい表紙だったのだが、今は完全改訂版として角川文庫から上下巻で出ている。持ち運んで読むのに上下巻は嬉しいのだが、やはりあの厚さが懐かしくなる。
舞台は雪が狂おしく乱れ舞う信州の山奥、白樺の木立に広がる湖に建つ巨大な洋館、霧越邸。東京の劇団「暗色天幕」のメンバー8人は公演の打ち上げとして信州美馬原のリゾートホテルに宿泊、その帰りに送迎バスが故障し徒歩で下山をしている最中急な天候の崩れにより吹雪に襲われる。道に迷ううちにたどり着いた霧越邸に滞在することになるが、そこで次々に起こる童謡の歌詞に見立てられた連続殺人事件。邸内にある装飾品や骨董品には劇団員の名前を示すようなものもあり謎が謎を呼んでいく。この一種の密室状態になっている閉ざされた雪の霧越邸において、犯人はなぜ殺人をおこなったのか、おこなわなければならなかったのか。伏線がどんどんラストに向かって回収されていく様は圧巻で、雪深き館の幻想的な描写も相まって、いつまでも、そしてこれからもずっと私の中の記憶に強く深く刻まれ、ことあるごとに思い出すことになると思う。それほど読んだときに衝撃を受けた作品だった。
家の前の山に出現した館は、次の日の朝見たときには消滅するどころか、テラスもついた大きな邸宅ということがわかった。それから今日まで一度も明かりがつくところを見たことがないが誰が何のために建てたのだろう。そしてなぜ完成するまで気がつかなかったのか、こちらも謎が謎を呼んでいる。
今回をもちまして、1年間の担当が終了します。とても楽しく貴重な経験でした。ありがとうございました!またいつかどこかでお会いできたら幸いです。
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- 八重洲ブックセンター京急上大岡店 平井真実
- サガンと萩尾望都好きの母の影響で、幼少期から本に囲まれすくすく育つ。読書は雑食。読書以外の趣味は見仏と音楽鑑賞、ライブ参戦。東大寺法華堂と阿倍文殊院が好き。いつか見仏記のお二人にばったり境内で出会うのが夢。