『アルプス席の母』早見和真

●今回の書評担当者●明屋書店空港通店 久保田光沙

 両手を上げて応援できる早見先生の作品にやっと出会えたのに、先生はもう愛媛にいない。早見先生が最初にサイン本を書きに来てくれた時、奥様手作りのかわいい栞を挟んでくれたし、愛媛でラジオ番組もしてくれたし、愛媛が舞台の名作を何冊も書いてくれた。それなのに私は心から応援できていなかった。

『店長がバカすぎて』の時、私の夫はスーパーの店長をしていた。私は知っている。女性が「あの人はバカよ」と言うとき、そのバカには愛が込められていることを。だが夫の苦労を間近で見ていた私は、心から応援できなかった。『八月の母』では、田舎という閉鎖的な空間のメタファーとして愛媛が使われているとわかっていたが、私の拙い文章のPOPでは伝わらず、地元のお客様を不快にさせるかもしれないと危惧した。

 だが今回は心から応援できるのに、早見先生はもう愛媛にいない。私はバカじゃない。アホだ。

 さて、この本は高校球児を息子にもつシングルマザーの奈々子の話であるが、ただの苦労話ではなく、悔いを残すなというメッセージがある。自尊心まみれの野球部父母会、監督への献金など、子供を餌にした様々なビジネスや対立があり、それらに菜々子は立ち向かっていく。それは息子である航太郎のためだが、一番の理由は菜々子自身が後悔しないためじゃないかと思った。そして私は自分の母を思い出した。

 私の母が高校生の時、数学科の大学を目指していたそうだが、親から反対されて地元の短大の家政科を出た。母は数学を極めなかったことを後悔していたから、私が高校生の時にもう一度数学を勉強して私に教えてくれた。超文系の私が大学に合格できたのは、いつも赤点の数学を少し引き上げてくれた母のおかげである。母曰く、数ⅢCは頭が追いつかず、数ⅡBが限界だったようで、自分の限界がわかってよかったと言っていた。だが、高校現役の母なら、数ⅢCも解けただろうし、数学科も合格できただろう。それよりも四十代になって後悔に気づき、限界を知るまでやり切ったことの方が、数学科の現役合格よりももっと意義のあることだと思った。この本に、自分が自分に期待をして、道を閉ざさずに、限界を感じるまでやり切るべきだと書かれている。やり切ったことは、母が私に数学を教えてくれたようにいつか役に立つかもしれないし、役に立たなくても後悔は残らない。

 ちなみに、私の母はまだ数学が好きだ。私の夫は理学部を卒業した生粋の理系なのだが、母はたまに私の夫に挑戦状を叩きつける。母は自分が厳選した数学の難問を私に託す。私は夫にその問題を渡すと夫は秒で解く。そして私は夫から小一時間の解説を聞き、メモをして母に伝えに行く。母は悔しがり、また難問を探している。文系の私はこの伝書鳩の時間が地獄なのだが、二人が楽しそうにしているからいいかと耐えている。

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明屋書店空港通店 久保田光沙
明屋書店空港通店 久保田光沙
愛媛生まれ。2011年明屋書店に入社。店舗や本部の商品課などを経て、結婚し、二回出産。現在、八歳と二歳の子を持つ母でもあり、妻でもあり、文芸担当の書店員でもある。作家は中村文則、小説は「青の炎」(貴志祐介)が一番好き。昨年のマイベスト本は「リバー」(奥田英朗)。