『自分疲れ ココロとカラダのあいだ』頭木弘樹

●今回の書評担当者●丸善博多店 脊戸真由美

  • 自分疲れ: ココロとカラダのあいだ (シリーズ「あいだで考える」)
  • 『自分疲れ: ココロとカラダのあいだ (シリーズ「あいだで考える」)』
    頭木 弘樹
    創元社
    1,540円(税込)
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 自分にうんざりしてへとへとだ。今日はゴミの日で、読みたくて買った積読は、ほんとに山と化してる。目を背け、アホ動画を見ちゃって終わる一日。

「自分でいることに、疲れを感じたことはないだろうか?」

 明日もアタシはアタシを続けるしかなく、劇的なビフォーアフターなんて起こらない。 キレイになりたい、脳を最大限に使う、ゼッタイ合格! 本屋では、なりたい惹句の新刊が今日も発売されている。

「ずっと同じ主人公の映画を見続けているようなもので、うんざりしてきてもおかしくない」

 頭木弘樹(文学紹介者)は、20歳のときに潰瘍性大腸炎に罹って、排泄の制御を失った。便の海で茫然と佇んでいると、看護師から雑巾を手渡されたこと。1ヶ月以上の絶飲食の後、はじめて口に入れたヨーグルトが口腔内で爆発する(としか言いようのない)体験を『食べることと出すこと』(医学書院)で綴っている。なぜカラダが漏らしてるのにココロが切なくなるのか。翻弄されまくった著者と文学作品から学びたい。

『あっと驚く科学の数字』(数から科学を読む研究会/ブルーバックス)によると、一生の大便の量は5トン。

 一日3食、一年で1095食。ひっきりなしに食べたものが口から肛門へ流れている。お尻を覆ってるのは、下着とスカートかズボンの薄布2枚。ダム決壊をコーヒーフィルターで止めようというものだ。悲劇の起きる準備は常にできている。


『ちびまる子ちゃん』第4巻からの引用は、体が脳を支配していく経過で、身に覚えがありすぎる。学校でおしっこを我慢するまるちゃんは、どんどんトイレのことしか考えられなくなる。

「わたしは今、尿意のみの女。全身ぼうこう人間である」

 ここ一年で、わたしは2回導尿された。足の骨折手術である。切った、ほじった、縫わ れた、という手術のダイレクトな痛みよりも、導尿管の方が堪えた。起き上がれない、寝返りでも引っ張っられる。万が一に備えて敷かれた防水シーツは蒸す。繋がれた奴隷状態。大を催そうもんなら、ベッドの上でおまるとのこと。食欲なんてあるわけない。導尿人間の一昼夜は、ほんとうにツラかった。

「健康なとき、人はほとんど体を意識しない。」

 頭木弘樹は病気が発覚する前、急に誰かれかまわずケンカを売りたい気分になったという。どちらが先かわからないが、カラダとともにココロも変化するらしい。「卵と鶏」問題のようである。

 わたしも貧血すぎてこのまま入院、と言われたときは、狐に憑かれたかのように日サロにせっせと通っていた。髪はドレッド。さらに妖怪のごとく、やたら氷を噛み砕く(貧血の症状)。

 夜道で、自転車ごとワゴン車に拉致られかけたのもこの頃だ。深夜に「オマエコロス」と非通知の留守電を頂いたこともある。ぞんぶんにケンカを売って歩いていたらしい。寄生虫に乗っ取られ、次の宿主の鳥に食べられるために空を目指すカタツムリのようである。

 あなたは「性格を直せ」と言われたことがあるだろうか?

 頭木弘樹は入院中、一日のうちに十人以上の人から「性格を直せ」と言われてる人を見た。十二指腸潰瘍の患者だ。今では潰瘍の原因が、ほぼピロリ菌であるとわかったが、当時は精神的なものと思われていた。医学ってある時、マルっとひっくり返るよな、というエピソードである。

「私」は目覚めていないのに、意識は目覚めていた。

 トラックにはねられ、長期間意識不明になった体験のコミックエッセイ『交通事故で頭を強打したらどうなるか?』(大和ハジメ/KADOKAWA)からの引用は衝撃だ。

 当人は1ヶ月以上たって覚醒したと思っている。しかし、実際には2週間後に会話してごはんを食べ、囲碁をしてピアノを弾いていた。何が食べたい?と聞かれて「梅シリーズ」や「ホワイト」という意味不明な返答をしている。それはだれなのだ?それまでは、自分が自分の体を動かしていると思っていたが、意識=「私」ではなかった。

 腕が麻痺した人は、我が身なのにただの肉のかたまりがぶら下がっていると感じ、ひどく重いという。

 わたしも手術後の下半身麻酔が効いてるうちに、自分の尻を触ってみた。なんだ? この分厚い脂身は!と驚愕した。冷たく他人の体のような感触で、とうてい我が身とは感じられなかった。

 コントロールは喪失する。ある日突然に。操縦席に乗ってると思うのはまやかしだ。

 手足だけではなく、眼球や乳房や陰茎、そして肛門を切除された人も「幻肢」という現象が80%以上の確率で起こるという。幻内臓もあるらしい。脳に肉体の容量イメージがあるからということだ。

 わたしも足の骨折で筋肉が激落ちしたとき、太ももに本を挟んだつもりがスカっと落とす、というのを何度も繰り返して学習できなかった。そういうことか。

 学門というものは細分化、専門化されていく。それに対して、文学は曖昧な世界だという。事象に白黒つけようと思うから苦しくなる。真実はたいてい「あいだ」にあるからだ。文学作品は、感情の「グラデーション≒あいだ」を描く。

「死も、恋愛も、青春も、不安も、退屈も、老いも、夕闇のほの暗い感じも、文学ではす べてが大切なテーマ」(島田潤一郎『あしたから出版社』/ちくま文庫)

 わたしたちは文学作品を読むことで、他者の経験を追体験している。そこから「自分」のことを読み解きたいと思っているからだ。

「仕事中の自分」と「家族といるときの自分」は違う人格である。わたしはそうだ。疲れるはずである。ココロやカラダがつらいときは、人間よりも本を選ぶ。めくらないと本は語りはじめないからだ。不思議と、こんな本あったのかという一冊に手が伸びる。わたしのために書かれた言葉をひろう。積読は救済装置なのだ。

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丸善博多店 脊戸真由美
丸善博多店 脊戸真由美
この博多の片隅に。文庫・新書売り場を耕し続けてウン十年。「ザ・本屋のオバチャーン」ストロングスタイル。最近の出来事は、店がオープン以来初の大リニューアル。そんな時に山で滑って足首骨折。一カ月後復帰したら、店内全部のレイアウトが変わっていて、異世界に転生した気持ちがわかったこと。休日は、コミさん(田中小実昌)のように、行き先を決めずにバスに乗り山か海へ。(福岡はすこし乗るとどちらかに着くのです)小銭レベルの冒険家。