WEB本の雑誌

5月19日(土)

『炎のサッカー日誌』

 僕は小学校の頃からサッカー好きで、部活もサッカー部に入っていたから、埼玉にプロサッカーチームができると聞いた瞬間から、当然のようにレッズサポとなった。
Jリーグ開幕当初は、券が買えずにテレビ観戦が多かったけれど、95年から運良くシーズンチケットを手に入れ、相棒とおるとホームの試合は毎回駆けつけるようになった。

 毎週土曜日になると早起きして、競技場に向かい、夜遅く興奮して帰ってくる僕を家族は不思議な物を見るような目つきで見ていた。兄貴からは「サッカーなんて野蛮人のやるスポーツだよ」と何度も馬鹿されていた。

 そんな兄貴が、ある日、女に振られた週末、暇そうに家のなかをぶらついていた。「暇ならサッカー行く?券が余ってるから連れていってあげるよ」と声をかけると、面倒くさそうについてきた。それが兄貴にとってレッズ人生の始まりだった。運良く(兄貴にとっては非常に運悪く)その頃、我が浦和レッズは赤い壁ギド・ブッフバルトを中心にとても強いチームだったのだ。その日も、福田や岡野あるいはウーベ・バインの活躍で4対0くらいで大勝してしまった。新レッズサポ一丁あがりである。

 こうなると毎週、兄弟揃って朝から駒場スタジアムに出かけることになる。試合に勝てば、少年時代に兄弟連れ添って虫取りに行き、ノコギリクワガタを採って来たような幸せそうな顔で帰宅し、負ければ、サッカー談義でケンカする。毎週それを繰り返すのである。そして、そんな兄弟を母親は心配そうに見ていた。

 きっと多分母親は、親心として「息子達が夢中になっているレッズとは何なんだろう?」という素朴な疑問で、ある日テレビのチャンネルを合わせたのだろう。サッカーなんていうものは、かつて息子が服を汚してくるスポーツとしか認識していなかったと思う。

 2時間の試合をテレビで見て、母親を驚かせたのは、レッズのサッカーではなく、ちらちらと映るサポーター達だった。我がふたりの息子と同じような真っ赤な格好をした人達が、競技場を埋め尽くし野太い声を上げている。なかには裸になっている奴までいてビックリしたのだと思う。

 元来、我が母親は血の気の多い人であった。息子の運動会を見に来て、騎馬戦では息子が上から落ちようが、頭を割って血を流そうが「イケー!倒せぇ」と叫んでいた人なのである。その翌年、危ないから騎馬戦は中止になるという学校からのお達しがあったとき、すぐさま校長室に怒鳴り込み、存続を求めた人なのだ。レッズのサポーターに共感しないわけがない。その日から、毎週毎週サッカーの時間になるとテレビの前に座り「イケー、ヤマダー」と叫ぶ生活となった。新レッズサポ2丁あがりである。

 さて、かわいそうなのは親父である。今まで野球の話をしていれば、とりあえず家族の会話になったのが、ある日突然すべてがサッカーの話になってしまったのである。おまけに土曜日の晩御飯は、サッカーに合わされることになった。夕方6時からの試合だと、その前にすべてをやり終えてじっくりテレビを見たい母親は、なんと5時に晩御飯にしてしまうのだ。どこの家庭でも女が強いのは、我が家も同じこと。親父はブツブツ不満を垂れながらも、それに従うしかなかった。

 ジャイアンツが変なチームになり出して、親父は野球がつまらなくなっていた。相撲はたまにしかやっていない。ゴルフもジャンボと青木がいなくなった。タイガーウッズはよくわからない。

 そこにレッズがあった。家族中で自分以外が騒いでいるレッズがあった。おまけにW杯予選と仏W杯があった。多分会社での会話もあって、ジョホルバールの岡野のゴールを見てしまった。得体の知れない高揚感があった。もしかしたら…、もしかしたらこれは面白いんじゃないかと想い始めた。きっとそうなのだ。
 そして、こそこそとレッズの試合を見るようになった。プライドが高いから家族には言えなかった。けれど、母親が2階に上がってレッズ戦を見ていると、ゴールシーンで階下から床を叩く音が聞こえ出した。徐々に岡野以外の選手がわかるようになっていた。

 そして今日のガンバ戦。
 午後7時、父親と母親は、テレビの前ではなく、ついに駒場スタジアムの椅子に座ってしまった。二人の席は、僕と兄貴のいる自由席から遠く離れた指定席だったので、僕は双眼鏡で覗いていた。60過ぎの母親がちょっとだけ偉そうな顔して、父親に選手の説明をしているのが手に取るようにわかる。「あれが、ヤマダ、あれがトゥット、すごいのよ!」

 すると父親がおもむろにカバンの中から何かを取り出す。ビニール袋を引き裂き、中身を取り出した。それは真っ赤なTシャツだった。7番OKANOと印刷されていた。

 僕は双眼鏡から目が離せなかった。それは、涙が流れているのを兄貴に悟られないようにするためだった。

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