第二十四回 取手-土浦-水戸

  • 街道を歩く―首都圏発1~2泊 (JTBの旅ノート プラス)
  • 『街道を歩く―首都圏発1~2泊 (JTBの旅ノート プラス)』
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  • 鎌倉街道 1 歴史編―武蔵野の歴史
  • 『鎌倉街道 1 歴史編―武蔵野の歴史』
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《第二十三回 横浜-我孫子-取手よりつづく

《水戸街道は五街道につぐ、主要街道である。これは、奥州諸大名に対する押さえという、江戸の北面の防備を水戸藩の役目として位置付けたためである》(「水戸街道」/『JTBの旅ノートPLUS 街道を歩く 首都圏発1~2泊』JTB 日本交通公社出版事業局、一九九五年)

 このガイドブックは水戸街道を二十頁も取り上げている(ちなみに、日光街道は八頁)。しかしは取手宿を散策中にはこの本の存在を知らなかった。
 旧水戸街道では取手本陣に寄り、長禅寺は通りすぎた。もうすこし旧水戸街道を歩いていたら、本願寺と本願寺参道に寄れたのだが、寒さと空腹に負け、取手駅に向かう。
 街道関係の旅行ガイドは何十冊と目を通したが、水戸街道の中でもっとも取り上げられているのが土浦宿である。旧街道の風情が残る宿場町であり、鎌倉街道とも重なっている。
 栗原仲道著『鎌倉街道Ⅰ 歴史編』(有峰書店、一九七六年)によると、鎌倉街道下道(房総・常陸街道)は「下総国府より北上して、松戸-相馬-土浦-常陸国府(石岡)-勿来-奥州へと通じていた」とある。上道中道下道以外にも「土浦-阿見-竜ケ崎にいたる山道」も鎌倉街道といわれている。いずれにせよ、鎌倉街道下道の研究者にとって土浦は重要地点なのだ。

 十四時三十三分のJR常磐線に乗り、土浦駅へ。十四時五十八分着。土浦駅には古本好きにとっては有名なつちうら古書倶楽部(れんが堂書店)がある。関東最大級の古書モールだ。土浦駅で降りた理由のひとつはこの古書モールに行きたかったからなのだが、その前に旧水戸街道を目指す。東若松町付近の水戸街道松並木まではタクシーに乗る。
 板谷の一里塚のすこし先の境川から街道散策を開始する。寒い。旧街道を歩いて板谷の一里塚、ひたすら南にまっすぐ歩くと水戸街道松並木があり。すぐ近くにドン・キホーテ・パウつちうらきたがある。夜も明るくて安心だ。「驚安の殿堂」と旧街道――これもまた司馬遼太郎が知らなかった街道の風景であり、この国のかたちである。
 複合商業施設のパウつちうらきたのグランドオープンは二〇〇四年三月十八日だという。土浦城跡(亀城公園)を経て、天保年間に立てられた矢口家住宅あたりまで一時間半くらい。ここで左膝にピリッとした痛みが走る。
 当初の予定では荒川沖駅周辺の旧街道まで歩くつもりだったが、日没までに辿り着けそうにない。つちうら古書倶楽部にも行きたいので吾妻庵総本店を見て土浦駅方面に向う。
 雨の日の街道は歩いている人がいない。信号のない場所で道を横断しようとすると「渡らせるか!」といわんばかりに車が急加速してくる。ちなみに、信号機のない横断歩道における車の一時停止率の都道府県ランキングがあり、二〇一八年のワーストは栃木県、二〇一九年がわが郷里の三重県だった。三重県民は歩行者にやさしくない。
 この日は雨だったが、街道歩きで注意が必要なのは電動アシスト自転車である。音もなく前から後ろから近づいてくる。歩道の真ん中を自転車が走ってくると、どちらに避けていいのかわからず、からだが固まる。

 午後十六時五十分、びっしょんこのへろへろの状態で、つちうら古書倶楽部へ。
 たしかにこの規模は関東最大級かもしれない。二〇一三年三月、関東・東北の二十二軒の古書店が共同出店し、開業(代表はれんが堂書店)。店舗面積は二百五十坪で約三十万冊の古書がある。
『JTBの旅ノートPLUS 街道を歩く 首都圏発1~2泊』JTB 日本交通公社出版事業局)などを購入する。この本は水戸街道を大きく取り上げているのも素晴らしいが「首都圏発1~2泊」という絞り込み方もよかった。
 わたしは二泊三日くらいの旅がちょうどいい。何度か三泊四日の街道歩きをしたが、たいてい最終日は疲労困憊で歩けなくなる。しかし無理して歩かないよう心がけても、目の前に知らない街道があれば歩きたくなるのが「街道病」なのである。
 この日の宿は水戸第一ホテル。三千円で朝食付の風呂なしの部屋に泊る予定だ(ボイラー室の下の部屋だともっと安い)。
 十八時一分のJR常磐線に乗る。席に座った途端、睡魔に襲われた。水戸駅、十八時四十四分着。
 風呂に入り、駅から宿までの道で見つけた千円でドリンク二杯+つまみ二つのセンベロセットのある沖縄料理かなでちという店に入る。オリオンの生ビール、シークワサーサワー、つまみ二つに加えて、沖縄そばも注文する。安いし、うまい。
 宿に戻る。寝る。

 二月一七日、今日も雨か。昨日より気温は暖かい。まだ左膝がちょっと痛い。
 筋トレの名言に「筋肉は裏切らない」という言葉があるが、実はその続きがある。
 ――筋肉は裏切らないが、関節は裏切る。
 今のわたしの膝は一日十五キロくらいが限界のようだ。中年の街道旅はアクセルよりもブレーキのほうが大切だと肝に銘じたい。
 朝八時、梅香一丁目の水戸藩士の藤田東湖生誕の地まで歩く。東湖は手塚治虫が幕末の蘭学医を描いた『陽だまりの樹』(手塚治虫漫画全集、全十一巻、小学館)にも出てくる水戸学の碩学で、巻頭の人物紹介には「全国の若者から尊敬を集める」と記されている。安政の地震(一八五五年)で母を助けようとして命を落とした。享年五十。
 すこし南に歩くと千波湖がある。川は桜川。雨が強くなり、水戸駅近辺の散策に変更する。

 桜川沿いの道を歩いて柳堤橋を渡ると、結城街道という道がある。小山宿(栃木県小山市城山町)から水戸宿までの街道のようだ。小山宿も行きたい。小山宿は日光街道、日光例幣使街道の宿場町である。
 結城街道をすこしだけ歩き、那珂川へ。昨年十月十二日から十三日にかけての台風十九号の大雨で那珂川やその支流も氾濫し、水戸市内でも大きな被害が出た。
 台風十九号は後に「令和元年東日本台風」と名づけられ、十四都県に甚大な被害をもたらした。
 弘道館周辺の「水戸学の道」を歩いて、水戸駅へ。弘道館は天保十二年(一八四一)創立の藩校。第九代藩主徳川斉昭が藤田東湖、会沢正志斎らの意見を取り入れて作った学校である。
 水戸史学会編『水戸の道しるべ』(展転社、一九八〇年)によると、東湖は「三千年の歴史に未だ曽って見ない学校」にしたいと述べていたそうだ。この本には水戸市街の史跡地図も付いている。持っていけばよかった。
 天気がよければ、水戸から東京への帰路は鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に乗り、鹿島神宮に寄ろうと考えていたのだが、雨だし、膝も痛い。中年の旅は臨機応変が大事である。昨日途中で歩くのをやめた土浦界隈を歩くことにする。
 午前九時二十九分のJR上野東京ラインに乗り、土浦駅でJR常磐線に乗り換え、午前十時十八分、荒川沖駅へ。記憶はぼやけつつあるが、マスクをして電車に乗った。
 ここから旧水戸街道を歩いて、土浦駅を目指す。
 土浦の古本屋で買った『JTBの旅ノートPLUS 街道を歩く』によると「荒川沖宿には本陣はなく、公用人馬の乗り継ぎ宿だったが、一般の旅行者の旅籠は多くあった」そうだ。
 国道と旧街道が合流する交差点あたりに原の前一里塚があったようなのだが、今は撤去されてしまった。歩く人がいなくなると、一里塚や石碑などの旧街道の名残は失われる。今の水戸街道はほとんど国道六号線になっている。荒川沖から土浦にかけては旧街道がわりと残っている土地だ。それでも一里塚はなくなってしまう。
 原の前の一里塚があった場所から観音堂の石仏群へ。

 野田伊豆守著『持ち歩き旅の手帖 旧街道を歩く』(交通新聞社、二〇〇四年)にも水戸街道の頁があり、土浦界隈を中心にわかりやすい地図が載っている。わたしはこの本で荒川沖駅の近くに旧鎌倉街道があることを知った。
 応安二年(一三六九)に建造された大聖寺の前を通る。『持ち歩き旅の手帖 旧街道を歩く』には大聖寺の周辺には古墳も多いと記されている。
 やっぱり旧街道はいい。天気さえよければ。街道関係のガイドブックに土浦がよく取り上げられる理由もわかる。銭亀橋あたりの桜川の土手の桜並木もいい道だった。悪天候でなければ。

 わたしは日本中の街道を知りたい。しかしそのすべてを歩くことはできない――と今回の旅で痛感した。
 また知りたいと歩きたいはちがう。わたしが歩きたい道は川沿いの道である。逆に車の通行量の多い道、歩道のない道は歩きたくない。命の危険がある。それもデタラメに歩きまわっているうちにわかってきたことだ。だからこれまでの旅は無駄ではなかった。

 春になったら、どの道を歩こう。そんなことを考えていたのが遠い昔のことのようだ。