英国警察小説の剛速球と変化球を受けてみよ!
文=小山正
英国の作家アン・クリーヴスの長編『沈黙』(高山真由美訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)が圧巻だ。英国南西部ノース・デヴォン州を舞台に、マシュー・ヴェン警部と仲間たちの捜査を描く本格ミステリで、シリーズ前作『哀惜』と同様に完成度が高い。
患者救済組織を運営する元医師が刺殺される。医療制度の不備や過去の自殺事件を探っていた彼の死で、関係者の不可解な行動が次々と明らかになる。
クリーヴスの作風は地味だ、という人もいよう。確かに一見ハデさはない。主人公マシューも、同じ著者のヴェラ警部やペレス警部のように、名探偵というよりは地道に事件に挑む凡人警官だ。彼らは仕事に悩み、苦しさを吐露しつつ、足を棒にして証拠探しと人間観察に励む。その姿は、同じく英国の古典ミステリ作家F・W・クロフツの主人公フレンチ警部に似ていなくもない。
マシューと同僚の私生活の一喜一憂が、細かく綴られるのも特長だ。今回はマシューの同性の夫ジョナサンとの絆が前作以上に濃密に描かれる。そして、事件関係者たちの心の動きの不思議さが、英国文学ならではのリアリズムで、劇的に語られてゆく。
クリーヴスの書き方は超絶技巧だ。さりげない会話や行為の中に、手掛かりや伏線を巧妙に隠すのが実に上手い。かくして読者は騙され、二転三転の展開を経て、ラストで衝撃の真相を知る。今回の『沈黙』も地味にみえて洗練を極めた剛速球。ラストで私は「ああ、凄い!」と唸った。クリーヴスこそ、現代本格ミステリの巨匠P・D・ジェイムズの後継者である。
『沈黙』が直球ならば、初紹介の英国作家ウィリアム・ショーの長編『罪の水際』(玉木亨訳/新潮文庫)は変化球。主人公でシングルマザーの刑事アレックスは行動が突拍子なく、読者の感情移入を拒否するタイプだ。
英国南部ケント州の海辺の町で、夫婦が惨殺死体で見つかる。殺害時刻に霊魂らしき浮遊体が目撃され、犯行現場の鏡には「皆殺しにせよ」という血文字。しかし、鑑識作業で犯人の指紋や足跡等、そもそも存在の痕跡が全く見つからない。過酷な捜査で心身を壊し療養中のアレックスは、独断専行で捜査を始める。とまあ怪奇ミステリ風に始まる物語は、やがて彼女の行動で混沌と化す。
作者の書き方や主人公の視点が慌しく、前半が読みづらいのが難点。が、後半は煩雑さが薄まり、一気呵成に最後まで読める。登場人物たちのビビッドな会話は事件の暗さを和ます中和剤になっているし、モンティ・パイソン風のギャグまで登場。アンチ警察小説さながらにオフビートな作風は、賛否両論ありそうな幕切れとともに、今月一番の異色作だった。
時々、これは良い! という児童文学に出会う。デボラ・ホプキンソンの長編『こうしてぼくはスパイになった』(服部京子訳/東京創元社)もそんな一冊。
主人公バーティは第二次世界大戦下のロンドンで、プロのスパイを夢見る十三歳。民間防衛隊ボランティアの彼は、ドイツ軍に爆撃された廃墟で愛犬と一緒に救助活動に忙しい。ある日彼は、傷病動物援護会の少女エレノアに出会う。彼女は諜報員らしき女性から渡された謎のノートを持っており、それには連合軍のフランス上陸情報が暗号で記されていた。二人は、シャーロッキアンのデイヴィッドと解読に挑む。
ミステリファンが注目すべきは、途中からヘレーン・ハンフの傑作ノンフィクション『チャリング・クロス街84番地』で知られる古書店〈マークス&Co〉が絡むこと。しかも店主の息子で暗号解読者レオ・マークスが登場する。彼は暗号のスペシャリストで、実在の人物。暗号詩を用い軍事作戦を遂行し、戦後は映画『血を吸うカメラ』(一九六〇)や『ツイステッド・ナーブ』(一九六八)等の異様な犯罪映画のシナリオを手掛けた。主人公たちと対峙するレオは、味方か? 敵か?
凝った構成と暗号趣味が楽しい。その一方でシリアスな要素もあり、戦禍のエピソードの数々は戦争の理不尽さを如実に語る。「歴史の真実を学び未来を築いて欲しい」という著者のメッセージが鮮烈な、骨太な児童ミステリだった。
イタリアのミステリ作家ジャンリーコ・カロフィーリオの長編『過去は異国』(飯田亮介訳/扶桑社ミステリー)も今月の異色作。若者の犯罪と運命を描く青春小説だ。
一九八九年。イタリア南部の街バーリの大学生ジョルジョは、大学中退者フランチェスコから、いかさまポーカー賭博の技を教わる。荒稼ぎを続ける二人は放蕩生活の末、不道徳と悪の道に転落してゆく。犯罪を厭わないフランチェスコとは違い、ジョルジョは虚しさを感じ、孤独と恐怖を覚える。彼らの悪事の合間に、イタリア憲兵隊による連続レイプ事件の捜査が挿入され、それが二人の人生とどう交錯するのか?──が後半の読みどころだ。
タイトルの『過去は異国』は、英国の作家L・P・ハートリーの名作長編『恋(恋を覗く少年)』の最初の一行"The past is a foreign country"から取られている。本書は著者の自伝的な小説で、若き日の心情を異邦人に喩えているのである。未熟なジョルジョは、小説『恋』の主人公のように魂の彷徨を繰り返す。さらに作中では、H・ヘッセやJ・ケルアックの青春文学が、ジョルジョたちの愛読書として回顧され、レナード・コーエンの名曲「さよならマリアンヌ」やB・スプリングスティーンの「明日なき暴走」(訳文では「明日への暴走」)等が、物語に彩りを添える。苦く暗い犯罪小説だが、なぜか胸が熱くなる。
(本の雑誌 2025年7月号)
- ●書評担当者● 小山正
1963年、東京都生まれ。ミステリ・映画・音楽に関するエッセイ・コラムを執筆。
著書に『ミステリ映画の大海の中で』 (アルファベータブックス)、編著に『バカミスの世界』(美術出版社)、『越境する本格ミステリ』(扶桑社)など。- 小山正 記事一覧 »