第173回直木賞受賞予想。杉江「ようやく出てきた東日本大震災のエンタメ作品」マライ「まさに入魂の傑作というべき」柚月裕子『逃亡者は北へ向かう』の受賞なるか?

毎日暑くて嫌になりますね。しかしまた今回もチームM&Mによる芥川・直木賞予想対談の時期がやってまいりました。〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mが7月16日に選考会が行われる第173回芥川・直木賞予想に挑みます。果たして栄冠を勝ち取るのは、どの小説か一緒に考えましょう。芥川賞編はコチラ

■第173回直木賞候補作
逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』(早川書房)2回目
青柳碧人『乱歩と千畝』(新潮社)初
芦沢央『嘘と隣人』(文藝春秋)2回目
塩田武士『踊りつかれて』(文藝春秋)初
夏木志朋『Nの逸脱』(ポプラ社)初
柚月裕子『逃亡者は北へ向かう』(新潮社)3回目
選考委員
浅田次郎、角田光代、京極夏彦、桐野夏生、辻村深月、林真理子、三浦しをん、宮部みゆき、米澤穂信

目次
▼逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』大衆小説として評価すべき点は多い、受賞はある
▼青柳碧人『乱歩と千畝』早く乱歩パート来ないかなとかつい思ってしまう
▼芦沢央『嘘と隣人』連作短篇集のお手本みたいな出来
▼塩田武士『踊りつかれて』芸能界裏面史はたしかに印象的だけど
▼夏木志朋『Nの逸脱』良質な実話怪談系ストーリーとの類縁関係も感じさせる
▼柚月裕子『逃亡者は北へ向かう』ようやく出てきた東日本大震災のエンタメ作品
▼直木賞候補作総括●祈りましょう! 正当な評価が得られますように

逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』大衆小説として評価すべき点は多い、受賞はある

マライ・メントライン(以下、マライ) 私の推しは『嘘と隣人』『Nの逸脱』、予想は『逃亡者は北へ向かう』です
杉江松恋(以下、杉江) 私のイチオシは『逃亡者は北へ向かう』、受賞予想は『ブレイクショットの軌跡』があるかもしれない、ということで。予想が分かれましたね。

マライ いいですねー。

 

ブレイクショットの軌跡
『ブレイクショットの軌跡』
逢坂 冬馬 / 早川書房 / 2,310円(税込)
あらすじ
霧山冬至は、天才・宮苑秀直に誘われ新興ファンドの役員に就任した。まっすぐ前を見ていた人生に、つまずきが訪れる。SUV車ブレイクショットを通じて描かれる人生奇譚。
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マライ 架空の国産SUV車をベースとした連作奇譚というべきか、さまざまな人物の運命との闘いが、互いの巧みな絡みを含めて描かれる内容です。際立った特徴として、章ごとにテーマや舞台がえらく違う。アフリカの内戦だったり不動産取引だったりサッカー戦術だったり脳機能障害だったり自動車整備だったり投資セミナー詐欺だったりさまざまですが、その業界の濃い人が読んでも納得しそうな解像度と深さで描かれている点が印象深い。「ま、リアリティ的にもこのくらい分かってるっぽく書いておけばいいだろ」感がまったくない。「カイジみたいなのを書いて」と言われたら書けちゃうでしょう。この熱量がすごくいい。全体にわたって善悪の両義性というものを慎重に、かつ刺さる感じで描いている。

杉江 決めつけない感じですね。だから薄っぺらい人というのは出てこない。

マライ 他方、この緻密さと表裏一体かもですが、取材で得た情報やネタを全部並べないと気が済まない過密さはネガティブに見えるかもしれない。かのジェフリー・ディーヴァーも来日したとき「書きたいネタの、でも冷静にみて過剰かなと感じなくもない箇所を、泣いて馬謖を斬って斬って削っていって、斬りすぎたかな? と主観的に感じるくらいが読者にとってほどよいのだ」と極意を述べていたそうですし。もしかするとそれは、作者というよりは編集者の問題かなと思えなくもない。そう考えると結末部にも過剰感があって、同様の指摘を呼ぶ可能性があります。

杉江 ああ、ほぼ同感です。編集者が削らせてないんだろうな、というところまで含めて。分量が熱を呼ぶこともあるのでいちがいに削ればいいとは言いませんが。私は前回(166回)候補に残った『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)をあまり評価していないんですが、指摘された宿題はちゃんと対策してきたと思います。ひとつの車を巡って運命の軌跡が交差しまくる構成なんで、基本的に長篇のプロットじゃなくて連作の構成なんですよね。だからひと続きの物語を書いたときに見えた粗は排除できています。各章で展開される物語も、プロット的にはあまり膨らみがないんですけど、骨組みの間に情報をつっこむことで読ませる内容にしています。それはそれでアリの技巧ですよ。大衆小説として評価すべき点は多いですし、受賞はあると思っています。

マライ すごい頭悪い表現で恐縮ですけど、「続き読みたいなぁ」という感触が最後まであったので、良しとしたいですね。詳細については延べませんけど、本作には LGBTQに絡む展開があって、さらに肯定感満開です。『同志少女よ、敵を撃て』が候補になったときと比べて、世相としてはLGBTQをはじめとする「尖り系の平等主張」に対する反動否定が激化している状況なのが気になります。というか、本作のLGBTQ肯定が「少し前の」「意識高い系」っぽい感触を帯びているのが気になるんです。『同志少女』は、当時の言論界で激アツだったフェミ系とアンチフェミ系の争点を絶妙な角度から「狙撃」したタイミングの良さが世評につながった感があり、それと比較すると、作品自体の内容や質とは別に今回は環境が整っていない気がします。と、いろいろ言ってしまいましたが、総合的にみてこの作品には、瑕疵っぽいものを上回るアツさと面白さが確実にあります。それが伝わるか否か、ですね。

杉江 欲を言えば、物語の後半で人間関係が収斂してくるじゃないですか。だからLGBTQの話題も浮上してくるんですが、前半の話がどこに転がっていくのかわからない感触の面白さは止まってしまうんですよ。でも後半がないと話がまとまらないのは事実です。そうやって考えていくとマライさんがおっしゃったように、最後にやりすぎだという感想を持つ人が出てもおかしくないですね。こういう力押しの作品が評価されてきた流れが直木賞にはあるので、十分受賞の目はあると思います。これだけ書けてんならいいじゃないか、という風に、同業者である選考委員は言いそうな気がしますよ。書ける書き手を優遇するという商業主義からすると、それは正しい。身体能力が高いから授賞しよう、という判断はアリだと思うんです。

 

青柳碧人『乱歩と千畝』早く乱歩パート来ないかなとかつい思ってしまう

乱歩と千畝:RAMPOとSEMPO
『乱歩と千畝:RAMPOとSEMPO』
青柳 碧人 / 新潮社 / 2,420円(税込)
あらすじ
江戸川乱歩と杉原千畝は、愛知五中の同門だった。日本における推理小説文化の功労者となった乱歩と人道外交家として今も名を残す千畝、交錯しながら二つの人生が延びていく。
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マライ 江戸川乱歩と杉原千畝、ともに歴史的著名人でありながらまったく別の文脈と空気感で語られるこの二人の人生には、実は愛知五中在籍ですれ違っていた、という絶妙な特異点があった。別の宇宙を生きたともいえるほど毛色の異なるこの両者に、もし人間的な知られざる接点と相互インパクトがあったなら、という発想がまず絶品で素晴らしい。その別世界感を反映して、乱歩パートが軽妙なコメディ感を帯びるのに対し、千畝パートがひたすらシリアスな感触を纏いつつ進行する構成も唸らせます。日本にへばりついたままミニマムな観点で展開する乱歩パートと、国際的なスケールで展開する千畝パートの対比の妙! だがそれゆえに、クソ真面目に道理の葛藤に悩む千畝パートよりも、理屈を超えて乱脈人生の辻褄合わせをしてしまう巨匠・乱歩パートのほうがエンタメ小説として圧倒的に面白いという構造的問題が発生するのです。乱歩が、自分を脅そうとした内務省の思想統制係にむしろ同情されて励まされちゃう一幕とかすごすぎます。読んでいて、早く乱歩パート来ないかなとかつい思ってしまうのよ(笑)。これを打破するためには、乱歩の魔術的な発想にヒントを得た作戦で千畝がソ連やナチスの裏をかくような痛快展開を描くしかないんですけど、そういう文脈に使えそうな史実はありませんからね。残念です!

杉江 杉原千畝はビザを発行するところが見せ場なんですよね。あとは乱歩との絡みで起伏を作っている感があります。だから小説としての山場は、乱歩がちょっと嫉妬まじりで横溝正史の『本陣殺人事件』を批評したら、あにはからんやその文章が山田風太郎や鮎川哲也らを鼓舞してしまったというくだりになっちゃいます。あそこがいいんですよ。史実と合っているかどうかは別として。

マライ それはもう業界小説じゃないですかっっっっ!(笑)

杉江 気になるのは乱歩にしても風太郎にしても、本人の心情になりきって作者が書いてますけど、あそこは評価が分かれるところかな。歴史上の人物ではありますけど、かなり最近まで生きていた人なんで、ああやって書いてしまうと、それは違うのではないか、というクレームを生みそうです。

マライ 場合によっては織田信長描写とか以上にそこは問題になるかも。ちなみにですね。実は杉原千畝って、ポーランド情報機関とのコネクションとそこで発揮された有能さから、ナチス親衛隊のSDつまり国家保安本部、しかもそのボスたる「ナチス第三の男」ラインハルト・ハイドリヒやその有能な部下である「ココ・シャネルの愛人」ヴァルター・シェレンベルクから、それこそ名指しで敵視されていたんですよ。このへんの美味しい史実をもっと膨らませられなかったか……と、第三帝国考証係としては思ってしまうのです。

杉江 ドイツ側はリッベントロップくらいしか著名人は出てきませんしね。だから、歴史小説の体裁ですけど、二人を主人公にした青春小説として読むべきだと思うんです。古関裕而が出てくるとか、日本側のスターシステムはうまく機能しているんです。マライさんのおっしゃるように、それが千畝パートでも発揮できていたら、もっと評価は高かったと思いますが。

マライ ですね。ということで、作中、ナチスで盛りたいという場合は、ぜひ当方までご一報ください!(笑)

芦沢央『嘘と隣人』連作短篇集のお手本みたいな出来

嘘と隣人
『嘘と隣人』
芦沢 央 / 文藝春秋 / 1,760円(税込)
あらすじ
元・刑事の平良正太郎は、孫が通う保育園の保護者がDV夫による暴行を受けたことを知る。事件の謎を解く鍵は正太郎が見聞した出来事にあった。新たな退職刑事ヒーロー登場。
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マライ 定年引退後の初老の元刑事が、自分の居住地域である神奈川県横浜市青葉区近辺で発生した地味な事件に巻き込まれ続ける連作短篇です。事件の本筋とは別なところに人間心理の真の闇を嗅ぎ取りつつ、そこには手を付けられずに幕が引かれる、という高度胸糞感の連打がじつに巧くて素晴らしい。主人公の元刑事の「前世紀じみた価値観をひきずりつつ時代変化には職能的に適応できており、スマホもいちおう使える」という視点設定の妙で、関係キャラの設定バランスの良さもあり、うまいこと全世代読者対応できている感触があります。ネットによる人間心理の浸蝕をあまり説明調にせず浮き彫りにしている点もポイント高い。芦沢さん、なんだか勝ちパターンをつくった感があります。続編が出たらぜひ読みたい。出ますよねたぶん。

杉江 とにかく芦沢さんは上手くなりましたよ。退職刑事が主人公を務めるという設定自体はありふれているんですが、捜査権がない主人公だから真相に気づいても口にしないでおこう、ということになる。あのへんでちゃんと現実感を出しています。ミステリーとしては毎回違ったことをやっているので、同一主人公の連作ですけど内容は盛りだくさんです。連作短篇集のお手本みたいな出来ですね。たぶん最後の見開きで真相がわかる話が多いのは意識していて、フィニッシング・ストロークを決めてやろうという作者の意識も強い。

マライ そうなんです。そこで様式美的な作法が効いている。私は受賞、じゅうぶんアリだと思いますよ。

杉江 現代を切り取った連作短篇が評価される例は一穂ミチ『ツミデミック』(171回受賞作 光文社)の先例もありますしね。

マライ でも「現代を描いてみましたよ!」的なドヤ感がなくていいんです、すごく。

杉江 同感です。洗練された書き手になりつつありますね。いろいろなタイプの現代人を物語中にいかに配列して、違った感触の物語を読ませるか、というところに評価が集中しそうです。宮部さんが褒めてくれそう。

塩田武士『踊りつかれて』芸能界裏面史はたしかに印象的だけど

踊りつかれて
『踊りつかれて』
塩田 武士 / 文藝春秋 / 2,420円(税込)
あらすじ
醜聞の主となった芸能人を匿名で叩く正義の人々。ネットに個人情報を流出させるという形で彼らを裁いた男が告訴された。担当弁護士の久代奏は彼の語らない過去に関心を持つ。
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マライ 冒頭で展開される「ネットリンチ文化」糾弾というか宣戦布告文は、惚れ惚れするほど鋭く的確で魅力的です。だが、その後のストーリー展開がなんじゃこりゃという感じで残念。時代に関係なく「クリエイター潰しは良くない」という主張をするのはわからなくもないのだけど、最終的に「昭和~平成初期のショービズ界にも問題はいろいろあったけど、その核心にあったクリエイター魂の熱気こそはホンモノであり尊かった!」という懐古マインドの無限上書きになっちゃうのはもったいない。刺さる世代も居そうであり、そこを狙った作品なのかなという気もしてしまったり。

杉江 小説前半におけるネット社会の悪魔進化ぶりはマライさんが先日出された著書『日本語再定義』(小学館)でも「忖度」や「上から目線」の章などでたびたび言及されたことかと思いますが「宣戦布告」の文章にはやはり感心する部分がありましたか。

マライ はい。あれほどマクロとミクロ双方の観点から「ネット的暴力性」のリアル本質を包括的かつ的確に告発する、戦闘的な檄文を見たことがありません。文句なく秀逸です。そして話を戻せば、杉江さんはやはりこのへんの芸能史は刺さる世代ですか。

杉江 うーん。スターとして登場する奥田美月という歌手が、美空ひばりと山口百恵と中森明菜を足して三で割ったようなキャラクターなのが、欲張りだなあ、と思いました。中森明菜は、世代的に見てトニー谷「さいざんすマンボ」のコピーはさすがにしないと思うんです。山口百恵もしない。だからといって美空ひばりの世代まで広げちゃうと、もう時間軸を超越した昭和芸能界そのものじゃないですか。

マライ フィリップ・K・ディックの『スキャナー・ダークリー』に出てくるスクランブル・スーツ(ハイテク容貌偽装スーツ)の設定を「美空ひばりと山口百恵と中森明菜を足して三で割った」にして着たら、そうなるのかもしれない。

杉江 わかるんですけどね。こども時代から天才だった美空ひばり、昭和歌番組の象徴ともいえる「スター誕生」から出てきた山口百恵、スキャンダルによって傷つけられた中森明菜と、時代が違う三つが合わされば、それは最強のアイコンができあがりますから。

マライ まさか、このようなスター特性的な分析からのツッコミが来るとは!

杉江 これも調べたことを書きすぎな小説だと思います。芸能界裏面史はたしかに印象的だけど、物語というより素材そのものの面白さですよね。あと美月の過去に関する部分は、モデルがうっすらと見えてくる。

マライ えっとその、杉江さんからの指摘としては「おまえニワカだろっ」という心情的な批判がデカかったりしますでしょうか(笑)。この。芸能界裏面史を面白いと感じる読者って、どのくらいの割合でしょうね。そこがひとつの勝負ポイントかと。

杉江 それこそコンビニ売りのスキャンダル誌がさんざん扱ってきたことなんで、目新しさはないと思うんです。既存の題材を扱うなら、読者の思いもしなかった方向から行くぐらいの切り込みがないといけない。桐野夏生なんて『グロテスク』(文藝春秋)で東電OL殺人事件を扱ったとき、慶應女子と思われる学校を中途の舞台にして、均質な空間で育った人間の歪みというところまで話を持っていきましたからね。あの凄みはこの作品にはないです。構造的にも問題があって、前半と後半で二つに分かれています。前半が主として天童ショージの話、後半は歌姫・奥田美月が中心で、そのつなぎめがうまくいっていない。奥田美月パートはさっきから行っている裏面史の要素が強くていろいろ詰め込まれている。構造美とは無縁で熱量で読ませる作品が売れてきたのが日本の大衆小説の歴史なんで否定はしません。ただ、受賞の目と考えると疑問です。

マライ しかもテーマが懐古にナチュラルシフトしていくので、共感読者を自動的に選ぶ仕様になっているんです。

杉江 あ、そうそう。SNSの話、途中からどうでもよくなってるでしょう。

マライ あのSNS問題から拡大深化してほしかったんですよねえ。

夏木志朋『Nの逸脱』良質な実話怪談系ストーリーとの類縁関係も感じさせる

Nの逸脱 (一般書)
『Nの逸脱 (一般書)』
夏木 志朋 / ポプラ社 / 1,760円(税込)
あらすじ
ペットショップで働く金本篤は突如大金が必要になった。来店した客のある行動に目をつけた篤は、その人物を恐喝しようと考えるのだが。日常からの些細な逸脱を描いた中篇集。
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マライ どこにでもありそうな町を舞台に、伝奇系「一歩手前」の寸止めっぽい空気感で展開される連作短中篇集です。テーマは「不安・恐怖の内部増殖」であるように感じられ、それぞれがどのように落着するかが大きな見どころ。なにやら独特な読み心地で、良質な実話怪談系ストーリーとの類縁関係も感じさせます。既存の文芸パターン類型にいろんな意味で当てはまりそうで実は当てはまらないっぽい感触がナイスですね。

杉江 と言いますと。

マライ 導入から中途までの文章・構成の雰囲気と結末部の「絶妙な不連続」感みたいなものが、通常のジャンル帰着を避けている印象があるのです。ただし、例えばホラーとサイコサスペンスの空気感には重なる部分もあるので、人によってはそう感じないかもしれません。ときに、最後の「占い師B」に登場する秋津というキャラクターはたぶん作者自身の何かが濃密に投影されているんですけど、構成パーツ自体は平凡でありながら全体的に異能な存在として機能してしまう説得力が素晴らしい。ちなみに「占い師B」の語り手であるベテラン占い師の坂東って、細木数子あたりで脳内ビジュアル展開する人が多そうだけど、個人的には圧倒的にマツコ・デラックスでした(笑)

杉江 これ、なんで候補になったのかよくわからなかったのです。人間が日常から非日常の側に行ってしまうところの面白さはあるんですけど、特に目新しさを感じたわけではない。日常からの逸脱という主題も、それほど工夫がなくて一話と二話で同じことをやっているようにも読めるんですよ。ワンアイデアでまだ書いているという印象で、潜在的な能力は認めるものの、直木賞の候補にするほどかな、と思いました。三作の違いがあまり感じられないので、作品集として読んだときに満足感が薄いのもちょっと問題です。あと、マライさんが実話怪談との類縁をおっしゃったので改めて気がついたんですけど、どの作品も主人公像が希薄なんですよ。主人公が誰かということがあまり問題じゃなくて、視点としていればいい、という小説に読めました。それはそれで別にいいのですが、全体の薄さはそのせいもあるのかなと思います。

マライ あーそう、視点小説というのはあるんですよ。そこで読者を選ぶのかもしれない。私の視点から言えば、まあさっきの説明の応用っぽい話になるのですが、実話怪談的な空気感で絶妙に定義しがたいサスペンス寄りポジションの小説、というのが実は好感度高くて、そこに目新しさを感じたのです。これは普段読んでいる文章のタイプの違いが出るポイントでしょうか。

杉江 もやもやした不安を読ませる小説にはなっていますけど、それしかない、とも言えるかと。あと繰り返しになりますけど三篇では弱いかと思います。

マライ 実話怪談系の読者からすると、もやもやした不安から怪談的なオチに至らず別のトコに行っちゃう展開が素敵なのですが、確かに分量の問題はありますね。選考委員のいまどき的な怪談対応度が結果に反映するかもしれません。なので、狙っての受賞は難しいかなぁ、と。

杉江 浅田次郎さんがどう評価するか、選評を読みたい気がしますね。

 

柚月裕子『逃亡者は北へ向かう』ようやく出てきた東日本大震災のエンタメ作品

逃亡者は北へ向かう
『逃亡者は北へ向かう』
柚月 裕子 / 新潮社 / 2,090円(税込)
あらすじ
暴行事件を起こして逮捕された真柴亮は、東日本大震災が起きたため自由の身となり逃亡を始める。刑事の陣内康介は、震災後に発覚した殺人事件の犯人は亮だと睨み、追跡を始めた。
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マライ 「自分は誰に、何を、どれくらい奪われているんだろう、という疑心暗鬼のマインドが静かに蔓延している社会的な空気に地味にマッチした「奪われた者たちがさらにいろいろ奪われてゆく」物語で、しかも「奪う側もいろいろ不本意」だったりする構造性が見事です。最初「いま敢えて東日本大震災ドラマを書くのはなぜか」と戸惑ったのですが、読んでみて納得。まさに今、よき説得力を持つ形で、冷静に深くそして熱く描ける題材なのだと痛感させられました。関係者すべてが心ならずも事件の渦に巻き込まれていくという形式が強みになっていて、お世辞抜きに世界各国語に翻訳されてほしい。たとえばドイツの読書界は「心理系警察ドラマ」と「災害ドキュメンタリー」に強い関心を抱くので、ある意味ジャストです。ただドイツの場合、原発事故についての記述フォローがたぶん必須。それをフィクション作品で描く/描かないことの内面的な意味について、巻末解説などで言及するとベターでしょう。というかノーヒントだとamazonレビューで「放射能の問題が軽微に扱われているのは偽善だ」とだけ書いて★1評価をつける逆読解力マンマンのクソレビュアーが出現しかねませんから。

杉江 ようやく出てきた東日本大震災のエンタメ作品だと思います。今回どの作品に授賞すべきかといえば、間違いなくこれだと思う。柚月さんは岩手県在住で、震災被害の当事者でもあります。当事者だからこそ、気持ちの整理をするまでこれだけの年月がかかったのかもしれません。津波の場面や、破壊された街で夜を迎える場面などは、たまらない恐怖の記憶がこみあげながら書くことになったでしょうし、それをきちんと抑制してこれだけの追跡小説に落とし込んだのは、称賛すべきだと思います。小説としても、追う者、追われる者がそれぞれ社会の中で報われていない人々で、震災の被害者が震災の被害者を追うというやりきれない構図になっているのが素晴らしい。誰も勝者がいない小説です。

マライ 同感です。さらに言えば、冒頭のあの場面に収斂させていく全体構造が凄い。精神的に圧巻です。

杉江 マライさんがおっしゃったとおりで「奪われた者たち」の小説なんですよね。2010年代以降の心的空気を圧縮したような内容になっているというのも同感です。

マライ この作品と作者は報われるべきです。

杉江 まったくもってその通りです。だってこの前にこれほど東日本大震災を「正面切って」題材化したエンタテインメント小説はなかったんですから。

直木賞候補作総括●祈りましょう! 正当な評価が得られますように

マライ 今回は6作品の激戦でした。そして毎回必ず入ってくるはずのサムライストーリー系作品がなかったのが印象的。そう思って振り返ると、大体みな心理サスペンスといえる内容ではありませんか。ある意味エンタメ小説王道といえばいえるのかもしれませんが、そうなると改めて『逃亡者は北へ向かう』の「東日本大震災小説の決定打」感が際立つ感じでもあります。

杉江 そうそう。時代小説なかったですね。今回は、予想に関しては心機一転で、大衆小説としての直木賞が万人に売れるものを選ぶとしたらどれか、ということを考えてみました。だからもちろん逢坂さんが取るといいんですけど、イチオシの柚月さんの受賞も心から祈っております。

マライ ですよね。『ブレイクショットの軌跡』は純然たる面白味と熱量で減点法的ツッコミを蹴散らせるのか。それにしても『逃亡者は北へ向かう』は、まさに「入魂」の傑作というべき。

杉江 そして『嘘と隣人』は、究極の上質でした。正当な評価が得られますように。

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