リアルでへんてこなエトガル・ケレットの短編集

文=林さかな

  • 銀河の果ての落とし穴
  • 『銀河の果ての落とし穴』
    エトガル・ケレット,広岡杏子
    河出書房新社
    2,640円(税込)
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  • アンチ (STAMP BOOKS)
  • 『アンチ (STAMP BOOKS)』
    ヨナタン・ヤヴィン,鴨志田 聡子
    岩波書店
    1,870円(税込)
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  • ケミストリー (新潮クレスト・ブックス)
  • 『ケミストリー (新潮クレスト・ブックス)』
    Wang,Weike,ワン,ウェイク,由美子, 小竹
    新潮社
    2,200円(税込)
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  • 戦下の淡き光
  • 『戦下の淡き光』
    マイケル・オンダーチェ,田栗美奈子
    作品社
    2,860円(税込)
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  • ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶
  • 『ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶』
    Ikstena,Nora,イクステナ,ノラ,歩, 黒沢
    新評論
    2,200円(税込)
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 夜半、人が訪ねてくることはない時間帯にチャイムが鳴った。警察の人が「雨が強まっていて危険なので避難してください」と注意喚起しに来た。そんなことはこの家に住んで初めてで、緊張の一夜を過ごしたせいか、翌日はどうにも疲れがとれず、どこかハイなところもあり奇妙な感覚。こんな時に読むのはエトガル・ケレットがいい。

 短編集『銀河の果ての落とし穴』(広岡杏子訳/河出書房新社)は、息をするように物語を紡いでいるかのようなケレット節が存分に楽しめる。短いものは、電車に一駅乗っている時間で読み切れる長さだ。

「前の前の回におれが大砲からブッ放されたとき」は最初に収録されている短編で、長いタイトルだが、三頁ほどの短さで、一瞬にして別世界に誘ってくれる。ルーマニアのサーカス団で檻の清掃員として働いていた「おれ」は、人間大砲をするサーカス団員の代役をさせられる。的にめがけて発射され、その後は無事なことをみせるために、お客様に向かっておじぎをする、そんな役割だったが、すんなり事は運ばない。

 ホロコーストを題材にした作品は軽妙に書かれているが事実の重みもしっかり感じる。ケレットの両親はともにホロコーストを経験しており、いまもイスラエルで暮らすケレットは、自分は主観的な物語を書いているとインタビューで答えている。
 へんてこな話にリアルがあるからこそ、おもしろいだけでないおかしみが、いつまでも心に残る。疲れた頭に、ユーモアが心地よく浸透し、気持ちを落ち着かせてくれた。

 ケレットはヘブライ語で書いているが、同じくヘブライ語で書かれたYA小説『アンチ』(ヨナタン・ヤヴィン/鴨志田聡子訳/岩波書店)もよかった。ラップに魅了されていく少年を描いたもので、テンポよく繰り出される言葉にほれぼれした。

 ヨナタンは、なついていた伯父のマティが自死したことで、深く傷ついている。学校で仲のいい友だちがいなかったヨナタンだが、ひょんなことからラップをしている仲間に入ることになる。ところが、そこではしたくないことを強制させられるので、グループで唯一気持ちが通じたリサと一緒にそこを抜け、二人でユニットを組む。ヨナタンとリサは練習を積んで、ラップの大会で優勝を目指す。

 思春期は、腹が立ったときに、つい安易に暴力に傾きがち。そこを、暴力ではなく言葉で踏みとどまろうとする。

 とはいえ気持ちを言葉で表すのはただでさえ難しい。そこで、ラップの登場。韻を踏んだ言葉を音にのせ、伝わる言葉をたたみかけていくラップのおもしろさ、深み、熱量が小説の中でたっぷり感じられる。

 日本で初めて紹介される作家、ウェイク・ワンは中国系アメリカ人。PEN/ヘミングウェイ賞受賞作『ケミストリー』(小竹由美子訳/新潮社)はデビュー作品にあたる。

 小説を読んでいると、まるで自分のことが書かれているように感じるときはないだろうか。本書を読んでいる間は、まさにそんな感覚をずっと抱いた。

「わたし」は中国系移民の両親をもち、彼らの期待に応えようと必死に勉強し、ボストンの大学院にすすむ。数年前からエリックというパートナーと一緒に暮らし、結婚も目前かというところで、立ちすくんでしまう。

 両親の関係がうまくいっていないのをずっと見てきたので、結婚に対して二の足を踏んでしまう「わたし」。それだけではなく、大学院での研究も思うように進まなくなってしまう。

 仕事でも結婚でも、最初の一歩は怖い。経験したことのない扉を開けるのは勇気がいる。あたりまえの心の動きをウェイク・ワンは理系ワードたっぷりに丁寧になぞる。

 心の声には耳をふさげない。自らの気持ちに抗うことは難しい。「わたし」がどうやって気持ちと折り合っていくのかを読みおえたとき、友人とお酒を飲みながらしゃべりまくってスッキリした時のような爽快感があった。

 ぽっと光がともったランプが印象的な表紙、マイケル・オンダーチェの新作『戦下の淡き光』(田栗美奈子訳/作品社)は詩的な描写で紡がれた小説。

 両親が二人の子どもを、犯罪者かもしれない二人の男に預けて姿を消す。置いていかれた子どもは十四歳のナサニエルと十六歳のレイチェル。親ではない、大人との暮らしは、案外おもしろいもので、夜中に出かけるなど、親ならとうてい許さないようなことも、ひとつの経験として黙認されていく。子どもを成長させるのは、親ではなく、他人の大人なのかもしれない。アルバイトひとつとっても、家庭以外の世界に足を踏み入れるのは、大きな経験になり、その後の人生を左右する。それにしても、親はなぜワケアリそうな他人に預けたのか。

 オンダーチェの筆致はできごとのイメージを言葉で豊かにふくらませ、小説の筋道を豊かに彩る。深く彫られた言葉で描かれる親の秘密はスリリングだ。

 現代のラトヴィアを代表する作家による『ソビエト・ミルク ラトヴィア母娘の記憶』(ノラ・イクステナ/黒沢歩訳/新評論)は読みごたえたっぷり。二十世紀後半のラトヴィアの背景は複雑で、長い間、近隣国に支配され、独立してからも事実上反古になり、その後ようやく独立を回復している。

 これはその地の母と娘の葛藤を記録した物語。母乳を与えず失踪した母、母の代わりに祖母が娘を育て、成長した娘はミルクが飲めなくなった。なぜ母は娘から離れていったのか、家庭環境の難しさと、時代のもたらす抑圧の生々しさが強い筆致で描かれている。

(本の雑誌 2019年12月号掲載)

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●書評担当者● 林さかな

一九六七年北海道生まれ。カナダ、京都、名古屋で生活。いまは東北在住。好きな詩:エミリー・ディキンソン「真実をそっくり語りなさい、しかし斜めに語りなさい――」

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