元気がむくむくわいてくる『ノースライト』がすごい!

文=北上次郎

  • 荒野にて
  • 『荒野にて』
    ウィリー ヴローティン,北田 絵里子
    早川書房
    2,200円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • わたし、定時で帰ります。 ハイパー
  • 『わたし、定時で帰ります。 ハイパー』
    帰子, 朱野
    新潮社
    1,512円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 ふいに蘇る。幼いころに過ごしたダムの村で、腰まである雪をかきわけて学校に通った少年の姿が、読み終えてもう三週間もたつというのに、突然現れる。信濃追分に作った家にぽつんと残されたブルーノ・タウトの椅子の、しんとした佇まいが、街を歩いているときに、脈絡もなくふいに立ち上がってくる。この物語のあちこちにちりばめられたそういう光景の断片が、ふいに蘇るのだ。横山秀夫『ノースライト』(新潮社)である。

 一級建築士、青瀬稔が信濃追分に作った家は、日本全国の個性的な住宅を厳選した『平成すまい二〇〇選』に掲載され、評判になる。問題は、その豪華本を見て、信濃追分まで行った人が「どなたも住んでらっしゃらないような感じがしましたが」とメールをくれたことだ。気になったので信濃追分まで行ってみると、本当に誰も住んでいない。引っ越した形跡がない。ただ、タウトの椅子がひとつ、ぽつんと置かれているだけ。すべてお任せします、先生の住みたい家を建ててくださいと言い、仕上がりにも満足して代金もきちんと支払った人が、なぜ引っ越してないのか。なぜ行方がわからないのか──本書の謎はこれだけだ。

 人が殺されたわけでもなく、事件性もないから、特に調べもしない。いや、調べはするのだが、急いではいない。ずっと気になっているだけ。その間、進行していくのは過去と現在の青瀬の人生だ。父親がダム工事の現場を渡り歩いた職人なので、全国のダムの村で過ごしたこと。家族が寄り添うように生きたそれらの日々が、少しずつゆっくりと描かれていく。いま青瀬が所属する設計事務所は所員五人の小さな事務所だが、所長の岡嶋は 公共建築のコンペを狙っている。協力しなければ、と青瀬は考える。

 もう一つは、別れた妻との間に中学生の娘がいて、月に一度会っていること。無言電話がかかってくると娘に聞いて、青瀬はそれが気になっている。

 そういう過去と現在が、とてもリアルに、色彩感豊かに描かれていくので、それを読むだけでも十分に堪能できることは書いておく。その底に、信濃追分の家に住むはずだった一家はどこに行ったのか、という謎が静かに強く流れているので、スリリングであることも付け加えておきたい。そして全体の四分の三が過ぎたあたりから、怒濤の展開が始まっていく。

 それまでにも消えた一家について少しずつ情報が入って、そのたびに調べはするのだが、残り四分の一のところから、それが一気に爆発するのだ。いやあ、すごいぞ。何が明らかになるのかはいっさい書かない。

 重要なのは、生きていく上で、何がいちばん大切なのかということだ。誇りと信頼だ。それがあれば、少年はまっすぐ生きていくことが出来る。これからの長い人生を、俯くことなく生きていくことが出来る。

 そう思うだけで、なんだかむくむくと元気が出てくる。これはそういう小説だ。まったく素晴らしい。

 おやっと思ったのが、ウィリー・ヴローティン『荒野にて』(北田絵里子訳/早川書房)。「孤独な少年は、老いた競走馬を連れて荒野をわたる旅へ──」というコピーが帯についた本なのである。映画スチールと思われるが、馬と少年が写った写真も掲げられている。

 こうなると当然、馬と少年のロードノベルだと思ってしまう。いや、もちろんそうではあるのだが、その部分は極端に少ないのだ。たとえば、馬と少年が旅に出るまでで物語の半分が過ぎている。で、やっと旅に出たと思ったら、すぐに少年は一人になる。その間、わずか六〇ページだ。

 こういう不満を書くと、この小説に腹を立てているように誤解されるかもしれないので、急いで付け加えておく。一五歳の少年の孤独が胸にしみる小説なのである。旅に出るまでの間、少年は競馬場で働くのだが、そこに現れる男たちのずるさ、旅の途中で出会う人々の温かさなど、人物造形も絶妙で、こういうものを静かな気持ちで読むことが読書の醍醐味だとの気がしないでもない。馬と一緒の旅の話をもっと読みたかった、というのは私の個人的な願望にすぎない。少年の伯母さんは本当にいるんだろうか。彼を温かく迎えてくれるんだろうか。それが気になって気になって、一気に読んだのである。

 今月は、熊谷達也『エスケープ・トレイン』(光文社)、瀧羽麻子『うちのレシピ』(新潮社)、西條奈加『隠居すごろく』(KADOKAWA)、朝倉宏景『僕の母がルーズソックスを』(講談社)など、まだ面白い本はあったのだが、紙枚がないので別の機会にする。今月のラストは、朱野帰子『わたし、定時で帰ります。ハイパー』(新潮社。

 前作の『わたし、定時で帰ります。』について、通常の「お仕事小説」とは微妙に違っている、と新刊時に書いた記憶があるが、微妙ではなく、明らかに違っていた。それを断言できなかったことを恥じる。その前作のラストにあったではないか。会社のために自分があるのではなく、自分のために会社があるのだと。どうしてここを読み落とすのか。つまり、朱野帰子のこのシリーズは、「お仕事小説」(それは多くの場合、仕事の面白さを結局は語ることが多い)全盛の世間のど真ん中に、いちばん大事なのは自分の生活だというメッセージを投げ込んだのである。その新しさを指摘せず、「微妙に違っている」とは笑われても仕方がないほど甘い読みだ。深く反省する。

 もちろん自分の生活を守るためには激しく戦わなければならない。ヒロインの、その戦いを活写したのが本書だ。

(本の雑誌 2019年5月号掲載)

« 前のページ | 次のページ »

●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

北上次郎 記事一覧 »