『52ヘルツのクジラたち』にどんどん引きつけられる!

文=北上次郎

  • 52ヘルツのクジラたち (単行本)
  • 『52ヘルツのクジラたち (単行本)』
    町田 そのこ
    中央公論新社
    1,760円(税込)
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  • 人生がそんなにも美しいのなら 荻原浩漫画作品集
  • 『人生がそんなにも美しいのなら 荻原浩漫画作品集』
    荻原 浩
    集英社
    1,320円(税込)
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 町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』(中央公論新社)の道具立ては、けたたましい。なにしろ、ネグレクトにDV、パワハラと、これでもかこれでもかと詰め込んでいるのだ。もうそういう話など読みたくない、と言う人がいても不思議ではない。いや、私がそう思ったんですが。

 ところが、読み始めると止められないのだ。それは文章のセンスがいいことと、もう一つ、切実なものがこの物語の底を流れているからだ。だから、どんどん引きつけられていく。キナコと52が、そしてアンが──彼らの苦しみと怒りが、ぐんぐん大きなものになっていくのである。

 ストーリーを詳述しないほうがいいだろう。えっ、こうなるのかよ、と次々に驚かれたほうがいい。知らずに読んだほうが絶対にいい。ここに書くことが出来るのは、人間の弱さと悪意が、周囲をかくも簡単に傷つけてしまうということと、それでも希望を捨てなければ、救いは必ず現れるということだ。その残酷さと希望を、作者は鮮やかに描いている。

 ちなみに、「52ヘルツのクジラ」とは、他のクジラとは周波数が違うので、仲間に声を届けることが出来ないクジラ、という意味だ。つまり、キナコと52とアンの声は、はたして届いたのかということを描いたのが本書なのである。こういうことはあまり書きたくないが、何度も目頭が熱くなったことを付け加えておく。

 今月の二冊目は、宇佐美まこと『ボニン浄土』(小学館)。この号が書店に並んだときにはまだ発売されていないが、一週間ぐらいで出てくるのでそれまで待たれたい。

 いやあ、すごいすごい。小笠原諸島を舞台にした物語だ。捕鯨船の補給基地だった江戸時代から現代まで、悠々たる時の流れを背景にして、人間の争いと憎しみと、そして癒しを、複雑なストーリーの中に描きだす。特に、昔のボニン・アイランド(無人がボニンと訛ったという)は、アメリカ人やイギリス人たちの西洋人、それにサモア人に日本人と、民族が入り乱れ、自由な島だったという「発見」がいい。マリアと幸乃に代表される凜とした女性像も素晴らしい。

 この『ボニン浄土』は、これまでの作品よりも一段上のステージに進んでいるという意味で、宇佐美まことにとって、エポックメーキングな作品になるのではないかと思われるが、同じような位置づけをしたくなるのが、遠田潤子『銀花の蔵』(新潮社)。

 というのは、冒頭から途中までは、いつもの遠田潤子とは違って、静かで、穏やかに展開していくからだ。冒頭から、緊張がぴんと張りつめたいつもの作品とは、明らかに異なっている。醤油を作る旧家の跡取りでありながら、絵を描くことしか興味のない父。料理上手でありながら、取るに足らないものをつい万引きしてしまう母。その両親と醤油蔵で育つ少女、銀花の物語で、おやおや、いつもと違ってゆったりしてるなと思う間もなく、途中から怒濤の展開が始まっていく。いつもの遠田潤子がパワフルに始まっていくのだ。そうすると熱いものが何度もこみ上げてきて、止まらなくなる。おお、今月は泣いてばっかりだ。

 宇佐美まことと、遠田潤子と、小野寺史宜の新作がほぼ三週間の間に出るとは、すごい月だ。その小野寺史宜の『食っちゃ寝て書いて』(KADOKAWA)と、馳星周『四神の旗』(中央公論新社)については、別の機会に譲りたい。この二作に少しだけ触れておけば、前者の主人公が、あの『三年兄妹』『百十五カ月』の作者である横尾成吾であること。後者は著者の新境地である古代史小説の傑作であることだ(すごいぞこれは)。私、あわてて前作の『比ぶ者なき』を買いに走った。おお、もっと前に気づいていれば当欄で絶賛したのに、ホント遅すぎて、申し訳ない。

 というわけで、あと二作。まず、荻原浩『人生がそんなにも美しいのなら』(集英社)。漫画作品集である。荻原浩の小説を、漫画化したという意味ではなく、荻原浩が漫画家としてデビューしたということだ。あとがきを読むと、荻原浩は漫画家を志していたというが、ホントにうまい。ドラマ作りがうまいのは今さら言うまでもないが、それを絵として描くのが唸るほどうまい。

 表題作もいいが、個人的に好きなのは「ある夏の地球最後の日」。SFに熱中していたころに読んだハル・クレメントの「アイス・ワールド」を思い出した。ようするに、見方を変えるだけで新鮮な風景が現れる、ということだ。

 今月の最後は、今村翔吾『じんかん』(講談社)。小説現代四月号に一挙掲載された長編だが、七〇〇枚もあるとは思えないほど一気読み。それはもちろん、中身が面白いからに他ならないが、雑誌で読んだほうが読みやすいということもある。昔はこのかたち、旧野性時代などで結構あったけれど、最近は珍しく、すごく気にいった。

 松永久秀を描く長編である。主家乗っ取り、将軍殺し、東大寺大仏殿の焼き討ち、という三悪事で知られる人物だが、その伝説の誤りを正していく長編だ。そういう見方、解釈は著者の独創ではないが、しかし、織田信長が語るという構成や、野盗と化して強奪を繰り返していた少年時代の日々の描写などは、躍動感に富んでいて、素晴らしい。困ったのは、義輝がろくでもない将軍として描かれていること。宮本昌孝『剣豪将軍義輝』の大ファンであるので、この義輝像にはまいった。同好の士はショックを受けないように、と書いておきたい。

(本の雑誌 2020年7月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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