ヒトラーが主役の探偵小説『黒き微睡みの囚人』を推す!

文=小財満

  • 黒き微睡みの囚人 (竹書房文庫)
  • 『黒き微睡みの囚人 (竹書房文庫)』
    ラヴィ・ティドハー
    竹書房
    1,320円(税込)
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  • 無垢なる者たちの煉獄 上 (竹書房文庫)
  • 『無垢なる者たちの煉獄 上 (竹書房文庫)』
    カリーヌ・ジエベル,坂田 雪子,吉野 さやか
    竹書房
    1,012円(税込)
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  • 無垢なる者たちの煉獄 下 (竹書房文庫)
  • 『無垢なる者たちの煉獄 下 (竹書房文庫)』
    カリーヌ・ジエベル,坂田 雪子,吉野 さやか
    竹書房
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  • あの子はもういない
  • 『あの子はもういない』
    ドゥオン, イ,直子, 小西
    文藝春秋
    2,530円(税込)
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  • 種の起源 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
  • 『種の起源 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)』
    チョン・ユジョン,カン・バンファ
    早川書房
    1,760円(税込)
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 イスラエル生まれのSF作家ラヴィ・ティドハーの二〇一四年発表作品『黒き微睡みの囚人』(押野慎吾訳/竹書房文庫)はメタフィクショナルな歴史改変SFでありながら、アドルフ・ヒトラーを主人公としたパルプ・フィクション的な私立探偵小説というハイブロウな逸品だ。

 一度はドイツの権力を握るかに思われた男、ウルフは独裁国家を築く直前、大転落と呼ばれる事件でドイツ共産党にその地位を追われ、ロンドンで亡命生活を送っていた。私立探偵として糊口をしのぐウルフのもとに、ユダヤ人の若い女性が依頼者としてやってくる。彼女の妹がドイツからロンドンへの密航のさなかに姿を消したというのだ。事件の裏に人身売買の臭いをかぎつけたウルフは昔の副官ヘスに情報を頼ることに。一方、ウルフの住む地区で娼婦を狙った連続殺人が発生。死体の胸に鉤十字が刻まれていたことから警察はウルフを犯人扱いするが。

 ユダヤ人女性の捜索、シオニストから命を狙われたというファシストの政治家からの犯人探しの依頼、ウルフを付け回すスパイの謀略、そして娼婦連続殺人事件。これらが平行した筋として進むハードボイルドのパロディという趣の物語だが、この第二次大戦が起こっていない世界でのウルフの物語自体が、現実世界の大戦下のアウシュビッツ収容所で生死の境をさまよう、あるユダヤ人作家の見ている夢であるらしいことが幕間で読者に示される。つまり現実のユダヤ人の境遇とウルフの境遇のリンクした構造を通して、作者は現代の欧州をおおう移民排斥運動が第二次大戦当時のファシズム台頭、そしてホロコーストと地続きであることを暴きだしていくのだ。ユダヤ人を排斥したヒトラーがロンドンでは移民と扱われ、右翼的排外主義者の支配するロンドンでは迫害の対象となるという皮肉は、現代を生きる我々読者もまた差別と迫害の当事者たりうることを思い出させる力を持っている。ミステリ・SFのジャンルを越え広く読まれたい一作だ。

 相変わらずフランスは独特のミステリ小説を生む土地柄で、近年は謎解きなどよりも〈悪〉という存在の本質への興味を軸にした作品が多いように思う。二〇一三年発表『無垢なる者たちの煉獄』カリーヌ・ジエベル(坂田雪子、吉野さやか訳/竹書房文庫)もこの世の様々な種類の〈悪〉を煮詰めたようなサイコスリラーだ。

 宝石店強盗犯のラファエルは犯行時に銃で打たれた瀕死の弟の手当をすべく、サンドラという獣医の屋敷に押しかける。彼女を監禁して治療にあたらせるラファエルとその一味だったが、態度を次々に豹変させるサンドラに導かれるように仲間割れを起こしてしまう。そんなとき屋敷の主であるサンドラの夫パトリックが帰宅。ともに監禁しようと企てるラファエルだったが、彼はまだ知らなかった。一見人畜無害に見えるその夫が、その実いたいけな少女を誘拐してきたばかりのシリアル・キラーだったことを......。

 悪夢のような監禁劇、という点で二〇一六年に邦訳された同じく仏ミステリの、極限状態におけるアンチ・ヒューマニズム文学『ささやかな手記』サンドリーヌ・コレットを連想した。目をそむけたくなるほどの地獄のような描写が続いても、ラファエルとパトリックという二種類の〈悪〉をぶつけあい、その攻防を動力にページを繰らせる作者の豪腕はお見事の一言だ。

 数年前より徐々に邦訳が増えてきた感のある韓国文芸作品だが、文芸シーンとしては純文学が盛んでエンタテインメントについては二の次という国柄らしく、日本に紹介されるミステリ作家もキム・オンス『設計者』など一部の作品を除けば金来成、金聖鍾といった大御所に限られていた。そんな韓国文芸界では非常に珍しいエンタメ専門のレーベル、Kスリラーの第一弾イ・ドゥオン『あの子はもういない』(小西直子訳/文藝春秋)が邦訳された。

 若い女性ユン・ソンイのもとに十年近く離れて暮らす高校生の妹チャンイの行方を知らないかと警官が尋ねてくる。彼女は殺害された同級生ソ・ユンジェの生きている姿を見た最後の目撃者で、事件当日から行方不明になっているというのだ。手がかりを追い、妹の暮らしていた家を訪れたソンイは家のいたるところに隠しカメラが仕掛けられていることを知るのだった。

 手がかりを追うごとに主人公自らと妹の育ってきた歪んだ環境が明らかになっていく。芸能界で子役として親から役割を期待され、奇矯な振る舞いを始める子供。彼女を囲む病的かつ偏執的な大人たち。その妹の生い立ちを理解してゆく過程で、姉であるソンイが感じる憤怒と怨嗟。そしてその姉の心情を映す鏡であるかのごとく暴力の連鎖へと導かれるクライマックス。決して心が晴れるような物語ではないが、ミステリ読者であれば事件の発端、動機になった部分に垣間見える悲しい美しさは誰もが認めるものだろう。

 韓国産のエンタテインメント小説が続くがチョン・ユジョン『種の起源』(カン・バンファ訳/ハヤカワ・ミステリ)は、『七年の夜』で家父長制的価値観の病的な闇を描いた作者によるサイコ・サスペンスだ。本作では他人の血にまみれ、記憶を失った状態で気づいた主人公が、母親を殺した記憶を取り戻し、周囲を巻き込んで堕ちていくまでが描かれている。作者の〈悪〉への興味を、ソシオパス(社会病質者)を主人公に、その思考回路を刻々と書きつけることで、誰しもが孕む悪徳を読者に突きつける作りだ。韓国のスティーヴン・キングと称される作者だが、本作はむしろコーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』を連想させる、人間の普遍的な邪悪と孤独を淡々と描いた作品だ。

(本の雑誌 2019年4月号掲載)

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●書評担当者● 小財満

1984年、福岡県生まれ。慶應義塾大学卒。在学中は推理小説同好会に所属。ミステリ・サブカルチャーの書評を中心に執筆活動を行う。

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