苦悩と向きあう日上秀之の"自営業文学"

文=大塚真祐子

 第55回文藝賞を受賞した日上秀之『はんぷくするもの』(河出書房新社)は、東北沿岸の赤街という集落で、三十歳を過ぎた毅とその母の営む仮設の商店が主な語りの場となる。かつての商店兼生家は津波で流され、借り物のプレハブ店舗のまま五年が過ぎた。

 ポカリスエットのショート缶が並ぶ冷蔵ショーケース、振動で勝手に開くレジのある十畳ほどの店に客は来ない。来るのは近所の風峰さんという老婆か友人の武田、ツケの支払いを延ばしつづける古木さんくらいだ。

〈自営業ばかりやってきた人間をいまさら期待を持って受け入れてくれる企業があるだろうか。彼はすでに三十歳を過ぎていたし、特別な資格を取得しているわけでもなかった。〉

 震災後文学というくくりがあるが、この作品において震災後というモチーフと同じくらい印象的だったのが、自営業や商売をめぐる毅の葛藤だった。

 久しぶりに店に来た風峰さんが衰弱し、話すのもままならない様子であるのを見て毅は衝撃を受ける。脂っぽいものや塩辛いものを、言われるがまま年寄りに売ったことを毅は悔いる。

〈母は店を閉めたいという。それは単に体調が良くなく、儲けもないということからくる。毅は自分の都合として、仕事をしているという形式のために店を続けたいと思っている。それだけでなく、自営業者でありたいと思っている。それが他者を傷つけ、苦しめ、悲しみを生んでいたならばどうであろうか。〉

 後半に再び、自営業だけをしてきた人間をいまさら採用する企業があるか、という自問がある。自営業にもさまざまな形態があり、それはときに自由を意味することでもあるはずだが、この作品は自営業であることの苦悩に、意識的に向き合っている。わたしはあえてこの小説を自営業文学と呼びたい。

「はんぷくするもの」というタイトルは、折にふれて手を洗わずにはいられない毅の強迫的な行動を表すものでもあり、商売や商店の仕事における繰り返しの日常を示すものでもあると思うが、支払いを避ける古木さんを毅が罵倒したのち、古木さんが発した台詞が強烈だった。

〈「あなたは津波に家を流されたじゃないですか」最初は静かに、しかし古木さんの声は地鳴りのように僅かずつ高くなりつつあった。「我が家はね、全く無事だったんですよ。波の飛沫すら一滴もかかりはしなかったですよ。(略)まるで何事もなかったみたいに、俺は過ごしていたんですよ!」〉

 理屈として通らないし、ツケを踏み倒しつづける古木さんに、毅が謗りを受ける理由はまったくない。なのに、読みながら自分はこの台詞を自然と受け入れ、古木さんという人物像は鮮やかに反転した。おそらくタイトルにはこの「覆る」の意味もこめられているはずだ。文学だからこそ光をあてられた、震災後を生きる人びとが、この作品ではしたたかにうごめいている。

 村田喜代子『エリザベスの友達』(新潮社)は、介護付きの老人ホーム「ひかりの里」で暮らす認知症の女性たちの物語だ。九十七歳になる天野初音は結婚して夫と大陸に渡り、天津の租界で暮した華やかな日々をもう一度生きている。面会に訪れる二女の千里や長女の満州美は、初音がどこへ帰ろうとしているのか、わずかな会話や写真から想像するしかない。

〈たしかにここにいるお年寄りは、わたしたちの眼から見ると得体の知れない奇妙な人ですよね。でもそれが特別に変でも不思議でもないんです。ただ今、ここに生きてるのに時間だけが過去のものなんです。昔の記憶の中で生きてます。するとね、初音さんがはたちと言うのなら、はたちが事実であってそれこそが現実です。〉

 という看護師の台詞にはっとなる。この作品では介護に伴う辛苦はほとんど描かれない。ただ、認知症の人の心の中になにが起きているのか、彼女たちがどこにいてなにを見ているのかということに、物語の力でおおらかに寄り添っている。

 と同時に、初音の心に広がる戦争直前の天津の景色と、娘たちがたどるその後の初音の人生は、戦争の記憶と目の前の現実とを容易に結びつける。過去に戻るという認知症の力が、戦争直前の不穏な空気を読者にもありありと呼び起こす。戦争についてのこんなアプローチがあったかと、目をみはる思いだった。

 小池昌代『影を歩く』(方丈社)は詩人の肩書を持つ作者の詩と、掌篇小説の両方を愉しめる贅沢な一冊だ。

〈「──街路樹から、一本、一本、濃い影が伸びてることがあるでしょう。ごく普通の、当たり前の風景なんだけれど、いつまでも見ていたいと思うんだ。あの影たち。もう永遠に。この感情って何なのかしら」〉

 四歳の子どもと歩いていると、背後に動く影や、長く伸びる影を面白がって見ていることがあり、そういえば自分にもそんなことがあったと思い出す。あれは現実からほんの少しずれた、もうひとつの世界を生きるもうひとりの自分だった。少なくともわたしはそう思っていた。現実からはぐれた「影」の物語が、この本にはあふれている。読みながら影の目線になって、わたしがわたしを見上げている。

 注目の復刊を二冊。三木卓『ミッドワイフの家』(水窓出版)と、坂口安吾『安吾巷談』(三田産業)。どちらも新しい出版社の刊行第一弾であり、前者は一九七三年に刊行された三木卓の第一小説集、後者は一九五〇年刊行の安吾の貴重なルポルタージュだ。

 三木卓の文体の緊張感は、男女の性を繊細に浮かびあがらせ、安吾の多彩な視点と語りの歯切れのよさは、読みながら疾走するような痛快さだ。二作とも新しいと感じる自分がいた。この面白さは現代文学のどこかに継承されているのだろうか。

(本の雑誌 2019年2月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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