作家と二人の女性をめぐる静かで途方もない作品

文=大塚真祐子

 人はなぜ書くのだろう、書くという行為はその人の何をあらわにするのだろう、そんな思いを抱かせる四冊が刊行された。

 井上荒野『あちらにいる鬼』(朝日新聞出版)は、著者の父親である作家の井上光晴とその妻、そして作家と恋愛関係にあった瀬戸内寂聴をモデルに書かれた小説である。

 静かな小説だ。何も起こらないという意味ではない。小説は妻と女性作家の目線で交互に描かれる。生じる数々の出来事は、決して穏やかなものではない。

 それでもこの作品を静かだと思うのは、妻の笙子と恋人のみはるが互いの存在にも、互いの共通項である作家、白木篤郎の存在にも揺らぐことのない、自分ひとりの部屋を持っているということと、それを映し出す作者の文体の密やかさにある。

 笙子がいくつかの小説を篤郎の代わりに書き、篤郎の名で発表されたというエピソードは、一度だけ母から聞いたという作者自身のインタビューによって、事実と推察される。笙子は幾度請われても、自分の名で作品を発表しようとはしなかった。

 みはるは小説に篤郎を登場させる。篤郎だけでなく、深く関わった人物はどうしても小説にあらわれてしまうと吐露する。

〈小説にわたしが書いた真実は、活字で固定された瞬間にわたしを裏切る。本当にそうだったのか。本当にそうだったのか。本当に愛していたのか。本当に愛されていたのか。それでわたしはまたあらたな物語を書きはじめるしかなくなるのだ。〉

 一方、篤郎は私小説を書かず、身辺雑記すら本当のことは書かれていない印象を受けた、とみはるは綴る。〇二年刊行の同著者のエッセイ『ひどい感じ 父・井上光晴』(講談社文庫)では、父親の経歴が嘘だったことが明らかにされている。自分自身を虚飾することで自らを創作へ駆り立てたのか、真実はわからない。

〈そうだ、わたしはとうとう、彼の小説の中に、わたしたちの愛の証拠を見つけることはできなかったのだった。〉

 読みながら、一体自分は何を読まされているのかと、何度も呆然とした。書くことが実存を凌駕することがある。その現場を繰りかえし見せつけられるような途方もない作品だった。

 島﨑今日子『森瑤子の帽子』(幻冬舎)は、八〇年代から九〇年代のバブル時代に、当時の女性たちの憧れを一身に背負い、風のように去った作家、森瑤子の評伝だ。

 堂々たるレディ、素朴、きらびやか、恥ずかしがり屋、ごく普通の人、作家を表す形容詞の多さにまず圧倒される。はり出した肩パッドと赤いルージュの武装で時代を味方につけながら、家族との関係に苦悩し、妻として母親としての罪悪感にさいなまれた作家の強さと脆さが、作家に関わった人々によって丁寧に明かされる。作家を創作へ突き動かし、時代の象徴へ押し上げたものとは何だったのか。

 八〇年代、フェミニズムをリンクさせた精神療法で注目を集めたカウンセラーの河野貴代美は、取材のために訪れた森のカウンセリングをつとめた。作家の源泉にあるものを、河野は率直に暴いている。

〈森さんは本質的に非常に虚しい人なんだと思います。その空虚さ、エンプティこそが彼女の苦しみの根源だと思う。(中略)それは彼女自身よくわかっていて、あのきらびやかな生活も服もみなそれを装飾するものだったと私は思っています〉

 森瑤子が注目されたころ学生だった自分は作品をほとんど読んでいない。それでも書店で赤い背表紙の文庫がずらりと並ぶ光景を鮮明に覚えている。書棚からその名を見ることがなくなった今、この本を通して作家に出会ったことの意味を思う。

 谷崎由依『藁の王』(新潮社)は、大学で文芸創作のゼミを持つ小説家の物語だ。

〈とある非常に曖昧な名前の法案〉が成立し、戦争へと歩みかけた時代に、創作をつうじて自分を表現しようとする若者たちのあやうさと、そのあやうさに照射される作家の鬱屈が、フレイザー『金枝篇』に書かれた古い王に重ねて描かれている。

 幸せになるために書いてはいけないのかという問い、書くほどひとりになると痩せ細る少女、〈書くことをはじめたのは、忘れるためでした〉という長い「手紙」を課題として提出した魚住エメル、宇宙のどこかに存在するいまだ読まれていない本というイメージ。書くという行為そのものを美しく、残酷に掘り下げた希有な一作だ。

 熊本の橙書店店主であり、文芸雑誌『アルテリ』の責任編集者でもある田尻久子の二冊目のエッセイ集、『みぎわに立って』(里山社)は熊本地震のあと、店を移転してからの日々がおもに綴られている。ページの冒頭で「書くという行為は人の何をあらわにするのか」と書いたのは、この本を読んでよぎった思いだった。

 読みすすめるうち、行ったことのない橙書店のふたつの窓が活字の上にすっと立ちあがる。窓には雨が降り、雨は光の線を描き、やがて光は窓の形になり、いっときだけ午後二時の晴れた陽の光を店の中に、そしてこの本を読むわたしの指先に小さく映す。水のような文章、という指摘が文中にあるが、日常を無色透明のまま言葉に移すと、何気ない景色もこんなに輪郭を鮮やかにするのかと打たれた。

 書くより読むほうが楽しいと語っていた作者が、書くことによって形にしたものとは何だろう。ミントシロップや水筒の珈琲、雨だれの軌跡や届けられなかった洋服は、作者によって紙の上に再び生まれ、その言葉に触れた読み手のなかでもう一度生きる。書くことも書かれることも空腹は満たさないし、素肌を温めるわけでもないが、生きるためあるいは生かすために人は書くのだと、この本がゆっくり思い出させてくれた。

(本の雑誌 2019年5月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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