豊饒な語りがつむぐ村田喜代子『飛族』に驚嘆!

文=大塚真祐子

 村田喜代子『飛族』(文藝春秋)は、五島列島をモチーフにした架空の島々の猛々しい自然と、島にたった二人で暮らす老女の生活を書いた一作だ。娘のウミ子がいくら説得しても、92歳の母親イオは島を離れようとしない。

 若者は本土に移り、残された年寄りたちは順に亡くなった。物資を運ぶ定期船の運航に年間二千万の経費が充てられることを、墓を守る老女たちは知らない。ただし役場に勤める鴫青年によれば、出ていかれても困ると言う。国境に近い島が無人になることで、侵入者に占拠されるおそれがあると言うのだ。

〈「無人島を一つ分捕ると、国境線の位置が現実にズレ込んでいきます。国境は動かしようはないけど、実際にはいろいろ物騒なことが起こるかもしれません」〉

 老いと過疎をめぐる静かな物語かと思いきや、島にまつわる政治的な側面がにわかにあらわれてはっとする。鴫のパトロールに付き添うウミ子が、外国人に警告を与えるため無人島で流す『君が代』に反撥すると、困った鴫の対応が面白い。

〈「それなら『君が代』のちょっと変わったスポーツバージョンでいきますか。読売ジャイアンツ対ヤクルトスワローズ戦のやつ。絢香の歌だけど、知ってますか。〉

 鴫はそのあとも鈴鹿の決勝バージョン、SMAPの中居正広バージョンなどを次々と取り出す。思わず吹き出した。暮らしは政治と地続きにあるが、この物語にはそこに生活する人々にしか持ちえないゆたかな景色があり、力強い言葉がある。

 題名や苗字からうかがえるとおり、この作品には鳥がそこかしこに登場する。島の空には渡り鳥が鳥柱を作り、老女は祭りで謎めいた鳥踊りを舞う。

 イオと島で暮らすソメ子の弟は、ウミ子の父や鴫の祖父と共に船の事故で亡くなったが、ある日ソメ子の夫の体を借りた弟が、漁師たちは嵐による浸水から逃れるため、鳥になって空を飛んだのだと話す。その様子をソメ子が鬼気迫る姿で語る。島には同じような逸話が様々にあると言われている。

〈すると鴫が急に考え込む顔で言った。/「鳥は大した国境破りですねえ。凄い密航者だ」/しかも平和な密航者だと、ウミ子は思う。〉

 土地の歴史と目の前の現実が、物語によってダイナミックに結びつくさまに驚嘆する。豊饒な語りにひきこまれる一冊。

 日和聡子『チャイムが鳴った』(新潮社)もまた、不思議な魅力をもつ作品集だ。

 巻頭に収録された「虹のかかる行町」は、保育園の運動会の場面からはじまる。大玉は赤組が先にゴールし、白組の号砲は歓声にまぎれた。フェンス際では幼児が網の目に手を入れ、園庭の外と内の空気の違いを確かめる。玉入れの玉を数える先生のTシャツには《Good luck with your exam!》と記されているが、園児にそれは読めず、先生自身も読んだことはない。固定したカメラを水平に動かすパンのように、淡々と場面が移る。

 フルネームの三人称も、この奇妙な静けさに拍車をかける。世羅正子、虹見京太郎・心市兄弟、行頭初実・縁・観礼姉妹、正座輪賞子、安波木米久美...このあたりでおかしい、と思う。名前が変すぎないか。暗号や意味が隠されているのか。あるいはこれが「行町」の地域性なのか。では「行町」とは何なのか。答えはない。延々とかけ違えられるボタンのように、不均衡さが作品全体を覆っていく。

 今村夏子の短編集『父と私の桜尾通り商店街』(KADOKAWA)も、不可解な不穏に満ちている。なかでも度肝を抜かれたのは「せとのママの誕生日」という作品だ。

「スナックせと」で働いていた三人の女性が、ママの誕生日を祝うため店に集まる。壊れかけた店で死んだように眠るママの目覚めを待ちながら、女たちは語らう。一回五百円ででべそを見せるよう言いつけられていたアリサ。常連の客へのキャ~の歓声のために、乳首をペンチでつねられていたカズエ。

 でべそ?ペンチ?読みながらあまりの展開に面食らう。物語中盤で各々の記憶がかみあわなくなり、じつは三人とも働いていた時期は重なっておらず、初対面であることが明かされる。

〈だけどわたしたちはお互いのことをとてもよく知っている。会ったこともない誰かのことを、昔からの一番親しい友達のように感じている。〉

 作品を解釈しようとするとき、一方で物語に解釈が必要なのか、という問いにいっとき引き裂かれる。この短編についても、おそらく彼女たちがとり行おうとしているのはパーティーではなく葬式であり、サスペンスの要素を見出すことも可能だが、これまでもこの作者が小説によって生み出してきた、人と関わりあうことの果てにある違和感や不快感と、ただ向かいあって漂っていたいようにも思う。

 そんなことを考えていたら、古溝真一郎『きらきらいし』(七月堂)という詩集に出会った。

〈食卓に誰かの/クックパッドのレシピが並ぶ/地球をつなぎとめているものはこころではなく重力だろう/だからわたしたちはどこへも行けない/だからわたしたちはどこへも行かれる〉

 子との生活、労働、生きるためのさまざまな営み。日常とひとくくりにされ、見過ごされるはずの時間がたまたま言葉になった、というような心地よい軽みがあり、どの一連にも自分や自分を知る誰かのことが書かれている気がした。

 言葉は物事に名前をつけ型にはめることも容易にできるし、ひろいあげて丁寧に分解することもできる。小説や詩に触れることは、言葉にすることのあやうさと愉楽を、いつもひとしく思いおこさせる。

(本の雑誌 2019年6月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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