実力拮抗の芥川賞候補全作読破!

文=大塚真祐子

  • 【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女
  • 『【第161回 芥川賞受賞作】むらさきのスカートの女』
    今村夏子
    朝日新聞出版
    1,404円(税込)
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  • カム・ギャザー・ラウンド・ピープル
  • 『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』
    高山 羽根子
    集英社
    1,430円(税込)
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 今回の芥川賞候補作を読みながら、妙な既視感にとらわれたのだが、過去の候補回をたどってわかった。今村夏子と古川真人、高山羽根子と古市憲寿、前作がそれぞれ同じ回で落選しているのだ。そうなると当然、前作をどう超えてきたかという点に言及があると予想されるが、完成度は拮抗していて、どの作品が受賞してもおかしくない。

 今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日新聞出版)は、いつもむらさきのスカートを穿いている近所の女と友達になるため、奔走する「わたし」の物語だ。

 女はホームレスのような様相で登場するが、家はあり、時々は働いているらしいことも、「わたし」のメモからわかる。自分と同じ勤務先に印をつけた求人情報誌を、女がいつも座るベンチに置くあたりで、おかしいと気づくはずだ。

 語り手である「わたし」を自分=読者の側と無意識に想定し、はじめは女を異質者としてとらえるのだが、本当に異常なのは「わたし」の方だと悟るときの、その反転にまず鳥肌が立つ。他人と関わることで否応なく生まれる負の空気を、この著者はいつも静かに、鮮やかに暴く。

 宗教に依存する家族を描いた前回の候補作『星の子』は、その筆力が評価される一方で、〈寓話以上小説未満〉(島田雅彦)という選評もあった。今作は共同体が孕む狂気や、何気なく露わになる貧困など、これまでの作品に通底する題材を、前作とは別の語り口で、時にユーモラスに、軽やかに描いている。

 高山羽根子『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』(集英社)は、いま変わりゆく"性"の形を未分化のまま、絶妙な均衡で物語に昇華した。

「私」の回想が前半の軸となる。祖母の背中がきれいで〈エロかった〉こと、工事現場にいた〈お腹なめおやじ〉のこと、潜り込んだ大学の学生寮で、ボブ・ディランの『時代は変わる』を弾いていたギターの男のこと。

 工事現場や学生寮でされたことを、現在の「私」は〈まあじっさい、なんの問題もないんだけれど〉、〈ほんとうに男もただの弱くって小さい生きものだったんだろう〉と胸におさめているが、高校の友人、ニシダとの再会で、その釣合がわずかに崩れる。二人が疾走する渋谷の街の風景が印象的だ。

 性的な視線にさらされることのあまりに多い女性という性を、女たちは黙ること、あるいは軽く嘲ることでやり過ごしてきた。そうではない、声をあげなくてはいけないのだと気づいたのは、本当に最近のことだ。この物語には、いままさに声をあげようとする時代の空気が、そのためらいも、逡巡もそのままに写しとられている。

 古市憲寿『百の夜は跳ねて』(新潮社)では、ビルの窓ガラス清掃で生計をたてる翔太が、窓越しに出会った謎の老婦人から、あなたが清掃する部屋を写真に撮ってきてほしいという依頼を受ける。

 時代の変わり目に安楽死を切望する若者を書いた『平成くん、さようなら』と今作が異なるのは、経済的に恵まれた環境にいるとは言えない主人公の境遇と、物語の中で取り扱われる死が、より重層的になっていることだと思う。就職活動に失敗し、偶然見つけたという今の仕事について、主人公は語る。

〈僕がここにいたことなんかすっかりみんなには忘れてしまって欲しい。本当は今すぐ死んでもいいはずなのに、死ねない僕にぴったりの仕事ですよね。できるだけ無駄な、意味のない仕事だから続けられてるんです。〉

 頭の中でたえず聴こえる、作業中の事故で死んだ先輩の声。地球の北の北にあるという、生まれてはいけないし死んではいけないという島の話。様々な形で描かれる死が照射するのは、生への欲望だろう。アプローチは前作と異なるが、小説としては非常にオーソドックスな作りであることに変わりはない。

 古川真人『ラッコの家』(文藝春秋)は、『縫わんばならん』、『四時過ぎの船』に続き、作者が一貫して書き続けている、九州の島に連なるある一族とその土地の物語だ。候補に挙がるのも三度目となる。

 老いて目が不自由なタツコの家に、入れ替わり立ち替わり親族が訪れ賑やかに会話を続ける、言ってしまえばそれだけの物語なのだが、語り手のおぼろげな視界がそのまま物語に映されるので、読みながら自分の五感まで変化したような錯覚がある。方言を聞き取る聴覚が際立ち、聞き間違いや連想から、記憶の内側へと入りこむタツコの意識の中で、自分も一緒にたゆたっているような感覚をおぼえるのだ。同じ背景を持つ過去作品と比べても、うねるような文体と物語の一体感は増しており、他に類を見ない作品であることは間違いない。

 台湾出身の李琴峰による『五つ数えれば三日月が』(文藝春秋)は、台湾人の「私」と日本人の浅羽実桜との再会の物語。「私」は台湾から日本の大学院に進学し、日本の銀行に就職、大学院で出会った実桜は、台中に日本語教師の職を得、台湾の男性と結婚した。

「私」は同性である実桜にいまも惹かれている。二つの言葉、国の間で揺らめく二人のアイデンティティと、セクシュアリティが物語の中で宙づりになる。作中にはさまれる、「私」の思いをのせた七言律詩が印象的で、現代的な要素の多い作品だ。

 受賞は『むらさきのスカートの女』。著者の今までの実績を含めれば至極順当。個人的には性というテーマを繊細に紡ぎあげた、高山作品も薦めたい。受賞作は物語が図式的でわかりやすいが、ぜひこれを入口に、当欄6月号で紹介した『父と私の桜尾通り商店街』や、デビュー作『こちらあみ子』にも触れてほしい。イノセンスと悪意が鏡合わせに存在する世界に、どこまでも自分がからめとられる。

(本の雑誌 2019年9月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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