性と生を問い直す村田沙耶香『生命式』

文=大塚真祐子

 村田沙耶香『生命式』(河出書房新社)には、二〇〇九年から二〇一八年までに発表された一二作の短編が収録されている。この間に野間文芸新人賞、三島由紀夫賞、芥川賞を受賞した著者の、代表作からこぼれた作品が収録されているのかと思いきや、この一冊に村田沙耶香の創作のエッセンスが、すべて凝縮されていると言っても過言ではない。物語をとおして、著者がくりかえし問い直してきた、性と生をめぐる禁忌が、短編ではより鋭利に切り取られ、ひとたびページをひらけば、作品世界にあっという間にひきずりこまれる。

 表題作「生命式」は、誰かが死んだときに葬式ではなく、「生命式」という儀式をとりおこなうことがスタンダードになった世界の物語だ。生命式では死んだ人間をおいしく調理して食しながら、集まった男女が妊娠を目的に相手を探し、相手が見つかれば「受精」をおこなう。人口増加を促す生命式には、国からの補助金も支給される。

〈「本当にいい風習だね。命を食べて、命を作る......」/おじいさんの言葉に、奥さんがハンカチで目を押さえた。/「そうですね。主人も喜びます」〉

 村田沙耶香の作品世界がディストピア的であるということは、たびたび言及されている。「人肉」という単語が飛び交う本作については、カニバリズム的思想と解釈される向きも、ひょっとしたらあるのかもしれない。誤りではないが、村田作品は名付ければ名付けるほど、キーワードにあてはめればあてはめるほど、本質から遠ざかるようなところがある。

 芥川賞受賞作の『コンビニ人間』に顕著だが、著者は一貫して普通とは何かということ、そもそも普通という概念は本当に存在するのかということを、小説という装置を使って問いつづけている。著者が物語によって紡ぎだす景色とは、現実の裏側にある空想語りなどではなく、社会のしくみや人々の意識を、ほんの少し組み替えれば容易に成立する、現在進行形の現実そのものなのだ。

「生命式」の語り手である私=池谷真保は、三〇年くらい前、まだ人肉を食べる習慣がなかったころのことを覚えており、人々の価値観の急激な変化に、違和感を覚えながら生きている。鎌倉の海で出会う見知らぬ男性とのやりとりが鮮烈だ。

〈「そのこと、変だって思いますか? 世界はこんなにどんどん変わって、何が正しいのかわからなくて、その中で、こんなふうに、世界を信じて私たちは山本を食べている。そんな自分たちを、おかしいって思いますか?」/男性は首を横にふった。/「いえ、思いません。だって、正常は発狂の一種でしょう? この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います」〉

 物語はこのあと雄大で美しい結末へと向かう。何が正しくて何が狂っているのか。収録されたどの作品にも答えはない。読めば読むほど自分の位相が、ただひたすらにずれていくだけだ。そしてそのことを清々しく感じるのはなぜだろう。

『多田尋子小説集 体温』(書肆汽水域一八〇〇円)を読みながら、村田作品とはまた別のアプローチで、普通とは何かを考える。八〇年代から九〇年代に多数の小説を発表し、芥川賞候補にも六度あがったことのある作家の小説が、作品集としてこのたび復刊された。

 収録された「体温」、「秘密」、「単身者たち」の三作品とも、語り手は四〇歳前後の女性である。発表された時期もそれぞれ九一年、九二年、八八年と近い。三〇年近くの時を経て現れたこの小説集が、現代に問いかけるものとは何か。

 結婚、出産、仕事、家族という属性に左右される女性に、当時と今と、本質的な変化はほとんどないように感じる。女性の生き方や幸福について考えるとき、そこには必ず他者がいて、夫や子供、親との関わりが、その基準を定めているように見えるのはなぜなのか。この作品集に収められた三作品は、他者に規定されがちな女性たちの来し方を丁寧になぞりながら、彼女たちがそれぞれの契機で役割を脱ぎ捨てるときの、その静寂とためらいと美しさを書いている。欲望が剥き出しになったとき、より強くなる彼女たちの輪郭に何度も自分を重ねる。それらを描写するきめ細やかな文章も多田作品の魅力のひとつだ。この普遍的な作品に、二〇一九年のいま触れられることの喜びをぜひ感じてほしい。

 題名に「読書」とつく新刊を二冊紹介したい。

 保坂和志『読書実録』(河出書房新社)は、詩人の吉増剛造が行なっていると言う筆写のエピソードからはじまる。吉増剛造が吉本隆明の文章を筆写、書き写しをしているのだと語っている対談を、著者も抜き書きする。筆写=なぞることから派生する見解や思考が、外側へなのか内側へなのか、どんどん連なりをもって流れていき、気がつくと著者の思考に沿って、この文章を読んでいる自分も、読むことの様々な形を体験している。深く考えるよりは、漂うように読みたい一冊。

 荒川洋治『霧中の読書』(みすず書房)は、『忘れられる過去』や『過去をもつ人』に連なる、詩人である著者の、主に書物についての散文を集めた一冊だ。〈椅子には、ふたつの世界がある〉という冒頭から、すでにひきこまれている。

〈ひとつは、椅子にすわって、人の話を聞くときの世界だ。〉
〈もうひとつは、いずれこちらが話すために、すわっている椅子の世界である。〉

 ページをひらけばまるで瞬間の暗転のように、そこは詩人の言葉の世界だ。声高に語られるわけではないのに、いつまでも静かに揺さぶられる。語られている自分の知らない書物が、またわたしを霧の中へと誘う。

(本の雑誌 2019年12月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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