今村夏子の三つの変身譚『木になった亜沙』

文=大塚真祐子

『文藝』二〇二〇年夏号(河出書房新社)には、「アジアの作家は新型コロナ禍にどう向き合うのか」という緊急特集が組まれ、六名の作家が寄稿している。中国を代表する作家のひとりである閻連科は冒頭にこう記す。〈私は、今日の文学に人々が言うような大きな意義があるのだろうかと、ずっと疑念を抱いている。〉

 中国で発禁とされた作品も多い閻連科の言葉は、その翻訳の意味するものより重い。かつて戦争や厄災を体験し、共感してそれらを記した作家たちを引き合いに出し、中国文学はこの苦境を書けるのかと自問する。

〈文学は無力で頼りなくやるせない。しかし作家は、その無力と頼りなさとやるせなさのせいにして、思考せず、自分のペン、声、権力を使って、不条理、死、号泣の現実に曲をつけ、賛美の歌を歌うこともできるのだ。〉

 日本の作家がこの疫病にどう向き合うかはわからないが、会うことや触れることが禁忌とされたこの時間が、人々の価値観に変化を与えることは間違いない。そのとき文学の描く景色は、どのようなものになるのか。

 今村夏子『木になった亜沙』(文藝春秋)には、人間が人間以外のものに変化する、いわゆる変身譚が三作収録される。表題作は、差しだす食べ物をなぜか誰にも食べてもらえない手をもつ少女、亜沙の物語だ。亜沙は事故により杉の木に転生し、わりばしになる。

 なぜ亜沙の手にわたった食物を誰も食べないのだろう。亜沙を預かる更生施設の先生は、わたしの手はそんなに汚いのかと嗚咽する亜沙にこう答える。

〈「逆です、きみの手は、きれいすぎる」〉

 著者は一貫して、穢れなきゆえの異端や、無垢であることの残虐性を物語に昇華しているが、今作の構造は処女作『こちらあみ子』に近い。異なるのは、あみ子の物語があみ子の世界の内側だけで終わるのに対し、亜沙には仲間がいることだ。

〈若者の家にはわりばしになった亜沙の他に、枕になった真奈や、ドアノブになった翔や、(中略)サボテンになった宗一郎などがいた。みんなそれぞれに、おもに子供時代に、亜沙が味わってきたような感覚を味わい、味わい続け、そして死んでいった人たちだ。〉

 異端者である語り手と同じ感覚を味わってきた対象というのは、これまでの今村作品にあまり登場しなかったように思う。〝変身〟というファンタジーの要素がこうした存在を可能にしたのかもしれず、このことは救済にも悲劇にもなる。

 著者の芥川賞候補作において、「寓話以上小説未満」という選評があったが、ならばと真正面から寓話を書こうとしたのが、今回の作品群なのかもしれない。私性を巧みに打ち消した物語と、何かを明確に〝語らない〟ことで浮きぼりになる社会性は、たしかに他に類をみない、現代の寓話と呼んでいいだろう。

 今村夏子とはまったく別のやり方で、物語をつうじて社会を切りとるのが中村文則だ。

 第二次世界大戦下、ある作戦を劇的な成功に導いたトランペットと、楽器をめぐる人々の数奇な運命を描いた『逃亡者』(幻冬舎)は、著者自身のルーツでもある長崎、浦上の潜伏キリシタンの歴史が大きく関わりをもつ。トランペットとともに逃走をつづけるフリージャーナリスト、山峰の孤独や葛藤が物語と絡み合う。

〈間違った関係性、グループの中にいたとしても、本人の思想を変えることは、ネットも含めそういったコミュニティーから出すことを意味する。勝手に説得してコミュニティーから出し、後はその本人を孤独のまま放り出すというのは、社会の自己満足に過ぎないのではないだろうか。〉

 リベラル思想の持ち主として、誹謗中傷を受ける山峰の洞察の数々に、著者自身の思想や社会との距離を垣間見る。宗教、戦争、国家とは何かを多方面から考えさせられる重厚な力作だ。
 
 翻訳家でありエッセイストでもある村井理子『兄の終い』(CCCメディアハウス)は、周囲に迷惑をかけつづけ、絶縁寸前だった兄の突然の死をめぐる実話。

 第一発見者である小学生の息子の良一君、前妻の加奈子ちゃん、そして妹の自分。兄に翻弄された人々が兄の死をきっかけに再会し、兄を弔うためにどう過ごしたか。軽やかで真摯な筆致に笑い、涙ぐみながら一気に読んだ。きょうだいというのは近くて遠い、家族のなかでも本当に厄介で、不思議な存在だ。北上次郎さんのページでさらに詳しく紹介されているので、あわせてご覧ください。

 本の読める店fuzkueの店主による二冊目の日記、阿久津隆『読書の日記 本づくり/スープとパン/重力の虹』(NUMABOOKS)は厚みに圧倒されるが、小ぶりな作りが意外と手になじむ。

 本の作りと同じく文章の風通しのよさが心地よい。そうだ、一日とはこうして過ぎていくのだったと非常時の今、日常の輪郭を日々の記述がありありと思い出させてくれる。

 夏葉社の別レーベルである岬書店は、書店との直取引のみで本を卸す。小規模でより自由に本を作りたい、一冊をより大切に届けたいという意図が込められている。この岬書店から刊行された大阿久佳乃『のどがかわいた』は、フリーペーパー「詩ぃちゃん」の内容に書きおろしを加え、書籍化したものだ。17歳から19歳までの思索と、詩をはじめとする本への誘いが綴られる。

 手にとってみないとわからない、とても大切なことが書かれている。あなたと同じではないかもしれない。今はわからないかもしれない。それでもいいから、今はただこの本をそばに置いておくことだ。大きな声に惑わされず、静かな心で。

(本の雑誌 2020年6月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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