藤野千夜『じい散歩』にじわじわ心が温まる!

文=高頭佐和子

  • さようならアルルカン/白い少女たち 氷室冴子初期作品集
  • 『さようならアルルカン/白い少女たち 氷室冴子初期作品集』
    氷室 冴子
    集英社
    2,090円(税込)
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 平日の昼間に外出すると、高齢男性が一人で散歩している姿をよく見かける。ファッションは、かなりの確率で帽子に肩掛けバッグだ。ほぼ全員がかの名優・地井武男氏が出演していた人気番組「ちい散歩」を見ていたのだろうと勝手に思っている。藤野千夜『じい散歩』(双葉社)は、そんな散歩好きの普通のじいさんが主人公の家族小説である。

 明石新平は89歳。1歳年下の妻には認知症の兆しがあり、会話がかみ合わないことが増えた。三人いる息子は全員独身で孫はいない。子どもの頃から繊細だった長男は高校中退以来部屋に引きこもっている。元々は会社員だった三男は、グラビアアイドルの撮影会の会社を興したもののうまくいかず、借金まみれになって実家に戻って来ている。唯一しっかり者の次男は、フラワーアーティストだ。ひらひらの服におかっぱ頭で、いつの間にか長女になっている。小説の中とは言え、大丈夫ですか?と心配になってしまう明石家だが、新平の日々は案外平穏だ。妻に浮気を疑われながらも毎日一人で散歩に出かけ、好きな建築物を眺める。時には喫茶店で隣り合わせた若い女の子にさりげなくケーキをご馳走し、アパートの1室を利用して昭和エロ写真コレクションの整理をするという趣味も続けている。

 若い頃に上京し、苦労して小さな建設会社を立ち上げた。兄弟の面倒もよく見たが、景気の良い時には家族には言えないこともした。会社は畳まざるを得なかったし、妻とは気持ちがすれ違ったこともあるが、さりげない愛情で繋がった一家の中心は今も新平だ。不甲斐ない息子たちを心配はしているが、誰かを責めることもせず、長女の生き方に口を出すこともしない。長い人生の重みを背負って軽やかに散歩する新平と、ツッコミどころあふれる家族の日常にじわじわと心が温まる。息子たちの代わりに、お父さんごめんね、でもありがとうと言いたいような気持ちになった。

 八木詠美『空芯手帳』(筑摩書房)は、太宰治賞受賞作だ。一人暮らしの会社員・柴田は、ある日会議の後のコーヒーカップを誰も片付けず、その仕事が当然のように自分に押し付けられていることにブチ切れて「妊娠している」と言ってしまう。その嘘をつきとおすことにした柴田は、プライベートでも食事や運動に気を使うようになり、母子手帳アプリをインストールし、マタニティビクス(妊婦のためのエアロビ)教室にまで通い始める。妊娠を偽装することによって見られる社内の人からの意外な反応に驚き、出会ったリアル妊婦たちが吐露する疑問や孤独に共感していく。

 その生活は次第に妊婦そのものになっていき、読んでいる側も本当に妊娠したのかと錯覚してしまうほどだ。突拍子もない嘘をつらぬこうとする柴田の切実な思いにはっとさせられた。女性の置かれた立場を描く小説はたくさんあるが、今までにない視点がユニークだ。今後の作品に期待したい作家である。

 食いしん坊なので、小説に出てくる食べ物が美味しそうだとそれだけで作品に対する満足度が上がるのだが、上村渉『うつくしい羽』(書肆侃々房)の描写力には、最高レベルの加点をしたい。ジビエ料理が食べたい、今すぐに。この気持ちを持っていく場所がないので、料理シーンを再読している。

 結婚生活が破綻した上に職も失い、養鶏場を営む御殿場の祖母の家に身を寄せている三十代の男が主人公だ。祖母の取引先のレストランで働かされることになるのだが、その店のオーナーシェフがかなりドラマティックでクセのある人物なのである。東京で有名店を経営していたが突然に行方を眩まし、数年後に地元の食材を使ったレストランを開いた。料理にはこだわりがあり、仕事には厳しい。乱暴で、すぐに従業員を怒鳴りつける。めっぽう酒に強く、脅威的な体力の持ち主だ。そんなシェフと毎晩酒を酌み交わし、知識を身につけ、必死で体を動かすことによって、傷を負った心は少しずつ再生していく。

 物語の冒頭には、イノシシに襲われたところを父に助けられた子どもの頃の記憶が描かれるが、このエピソードが小説に深みをもたらしている。主人公と一緒に、食材の焼ける香ばしさと喧騒の中で働いているような気持ちにさせられた。料理に対する好奇心と食欲もわく一冊だ。
 今月もっとも嬉しかったのは『さようならアルルカン/白い少女たち 氷室冴子初期作品集』(集英社)の刊行だ。表題作の一つである「さようならアルルカン」には、二人の少女が登場する。正しいと思ったことや辛辣な感想を軋轢を覚悟で口に出し、決して群れない少女・真琴。そんな真琴と似た感性を持ち、その孤高な生き方に憧れながらも、周囲から浮かないように自分を隠している主人公。純粋さゆえに傷つけられてしまう真琴の孤独と、真琴を理解することで本当の自分を取り戻そうとする主人公の変化を、著者は深く掘り下げていく。久々に再読し、その真摯なメッセージに改めて魅了されると同時に、最初に読んでから数十年経った今も、その言葉が確かに自分の中に残り続けていたのだということを実感している。

 氷室氏は、80年代を中心に活躍したコバルト作家の中でも最も人気があった一人だ。平安時代を舞台にしたラブコメ『なんて素敵にジャパネスク』や、明るい学園ものの『クララ白書』などのシリーズは広く読まれていたが、軽快とは言えないこの作品は、一部の熱心なファンだけが手にしていたと思う。著者がこの世を去ってから十年以上経ち、読者の少女たちが中年になった今、この静かな小説を、単行本未収録作品という思いがけないプレゼント付きで再度この世に送り出す企画を実現してくれた編集者に敬意を表したい。

(本の雑誌 2021年3月号掲載)

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●書評担当者● 高頭佐和子

神奈川県生まれ。都内在勤書店員。文芸書担当。

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