濃厚ゴシック・ミステリ『ホテル・ネヴァーシンク』が素晴らしい!
文=吉野仁
世界のあらゆるミステリ賞のなかで、アメリカ探偵作家クラブによるエドガー賞の注目度が高いのは、その歴史と実績にあるのだろう。年度は異なるが、エドガー賞三部門の受賞作が邦訳された。なかでも素晴らしいのは、二〇二〇年度の最優秀ペイパーバック・オリジナル賞に輝いたアダム・オファロン・プライス『ホテル・ネヴァーシンク』(青木純子訳/ハヤカワ・ミステリ)だ。
ニューヨーク州キャッツキル山地にそびえたつ〈ホテル・ネヴァーシンク〉。創業者はポーランド系ユダヤ人シコルスキーで、一九三一年に開業したのち成長をとげ、やがて大統領や政府の要人をはじめ、各界の有名人が訪れるなど、リゾート地として名を馳せるまでになった。だが、あるとき子供の失踪事件が発生した。以来、周辺で同様の出来事がたびたび起こり、それとともにホテルの人気は陰りはじめた。
本作は、章ごとに語り手が異なる連作形式をとり、一九五〇年から二〇一二年まで、創業一族の面々や従業員などホテル関係者の視点で順々に語られていくのだ。それぞれひと癖もふた癖もある人物であるうえに、短い章のなかで語られる話が数奇に満ちており、飽きることはない。創業者の名前がアッシャーであることから、ポーの名作「アッシャー家の崩壊」を下敷きにしているのは明白で、一家の興亡を軸としたゴシック・ミステリなのだが、そこへ盗癖のあるメイドやホテル探偵までが語り手に加わり、しかも同じ出来事が別の人物によって述べられたり、年数を経て回想されたりするため、謎や物語の層はますます重なり深まり面白さここに極まれりといった様相を呈していく。また『不思議の国のアリス』といったわかりやすい名作のみならず、作中でとりあげられた小説や音楽とその扱いなどにもセンスの良さを感じた。なぜこれがハードカヴァーで出なかったのかと疑念を抱くほど中身が濃く、忘れがたい味わいが残る珠玉の名作である。
そして同じく二〇二〇年度エドガー賞で最優秀新人賞を受賞したのが、アンジー・キム『ミラクル・クリーク』(服部京子訳/ハヤカワ・ミステリ)。郊外の街にある酸素治療施設で起こった放火事件をめぐる法廷ものであり、移民として現在アメリカで暮らす韓国人一家を中心とした家族のドラマでもある。子供の障害や難病の治療という問題が絡み、事件の真相をめぐるミステリが展開していく。高い評価を得たのは、苦悩や秘密を抱えた人々の切実な姿が胸に迫るからだろう。
またコートニー・サマーズ『ローンガール・ハードボイルド』(高山真由美訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)は、二〇一九年度のエドガー賞YA部門受賞作である。妹を義父に殺された少女セイディが復讐のための追跡行をくりひろげていく物語だ。ラジオの番組に仕立てた構成は、YA向けゆえ暴力シーンなどを生々しく描くわけにはいかない制約あってのことかもしれないが、わたしは吃音の少女セイディが語り手となる章をもっともっと読みたかった。
今月は日本でも人気の高い作家のシリーズ邦訳最新作も多く、いずれも期待どおりだった。ジョー・ネスボ『ファントム 亡霊の罠』(戸田裕之訳/集英社文庫)は、ハリー・ホーレ・シリーズ第九作。オスロのドラッグ売人の死をめぐり、かつての恋人であるラケルの息子オレグが殺人容疑で逮捕されたことから、ハリーは独自に捜査をはじめた。文字どおり捨て身の戦いに挑み、満身創痍となって事件の解決へと向かう展開は、もはやシリーズの常套だが、ひねりに満ちた本作の結末はさらに尋常なものではなく驚かされた。
マーク・グリーニー『暗殺者の悔恨』(伏見威蕃訳/ハヤカワ文庫NV)はグレイマン・シリーズの第九作で、ボスニア、イタリア、そしてアメリカを舞台に、暗殺者ジェントリーが大がかりな人身売買組織に立ち向かい、派手な活劇が繰りひろげられる。グレイマンが戦闘に関して素人同然の女性とコンビを組む展開が斬新だ。なにより耳元でさまざまな爆音が鳴り響くかのようなクライマックスでの激戦は圧巻である。
アン・クリーヴス『地の告発』(玉木亨訳/創元推理文庫)は、シェトランド諸島を舞台としたペレス警部シリーズ第七作で、発見された女性遺体の身元特定と犯人探しをめぐる英国本格探偵もの。島の住民の人間模様とともに、地道な捜査のなかに隠された真実を見つける謎解きミステリとして、完成度の高い一作だ。
最後に、今月いちばんの痛快作は、マシュー・クワーク『ナイト・エージェント』(堤朝子訳/ハーパーBOOKS)だ。FBI局員ピーターは、ホワイトハウスの地下にある危機管理室で緊急電話を取りつぐ深夜番を担当していた。最高機密を扱っているためか、ピーターは発信者からの暗号を受け取り、そのメッセージを上司に伝えるだけの役目だった。任務に就いてからおよそ一年のあいだ電話が鳴ったのは一度きりという退屈な仕事。だが、ある晩、震える声で話す若い女性ローズから、救助を求める電話を受けた。彼女の伯父夫婦が何者かに殺害されたのだ。それをきっかけに、ピーターは国家レベルの陰謀に巻きこまれていく。
存在感あるキャラクター設定や巧みにつくられたプロットゆえ、この手のものにありがちな、大風呂敷を広げただけで終わることはない。登場する大統領は架空の人物ながら「ロシア疑惑」を思わせる事件が背後にあるほか、ホワイトハウス内部の描き方がリアルに感じられ、大統領をめぐる細やかなエピソードも印象的だ。作者の取材力、創造力、構成力がみごと結実したスパイスリラーである。
(本の雑誌 2021年2月号掲載)
- ●書評担当者● 吉野仁
1958年東京生まれ。書評家。おもにミステリを中心とした小説や本の書評、文庫解説などを執筆。
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