規範から外れた女たちの物語『鳥の心臓の夏』

文=橋本輝幸

  • タイヤル・バライ 本当の人
  • 『タイヤル・バライ 本当の人』
    トマス・ハヤン,下村 作次郎
    田畑書店
    3,080円(税込)
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  • 鳥の心臓の夏
  • 『鳥の心臓の夏』
    ヴィクトリア・ロイド=バーロウ,上杉 隼人
    朝日新聞出版
    3,300円(税込)
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  • 半生【はんせい】の絆 (ハヤカワepi文庫)
  • 『半生【はんせい】の絆 (ハヤカワepi文庫)』
    張 愛玲,濱田 麻矢
    早川書房
    1,892円(税込)
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  • 石の扉: キャリントン中・短篇集 (シュルレアリスム叢書)
  • 『石の扉: キャリントン中・短篇集 (シュルレアリスム叢書)』
    レオノーラ・キャリントン,野中雅代
    国書刊行会
    4,180円(税込)
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  • 水の流れ
  • 『水の流れ』
    クラリッセ・リスペクトル,福嶋 伸洋
    河出書房新社
    2,640円(税込)
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 トマス・ハヤン『タイヤル・バライ 本当の人』(下村作次郎訳/田畑書店)は台湾の原住民作家(台湾では先住民と呼ばない)の初の邦訳である。台湾政府の現在の定義によれば、台湾には十六の原住民族が居住している。著者は一九七二年生まれのタイヤル族だ。同名のタイヤル族男性四人の人生が、先祖の霊との対話や霊が持つ携帯電話の映像によって浮かび上がる。時系列に沿わない構成に混乱するが、巻末解説が助けになる。登場人物が同名でまぎらわしいのも、実は本書がマルケス『百年の孤独』を参考に、個人史を通してタイヤル族が土地と伝統を失ったこの百年を書いた本であるヒントだろう。映画『セデック・バレ』(二〇一一)がテーマにした日本統治時代の原住民の蜂起と虐殺は本書でも書かれている。去年、春秋社〈アジア文芸ライブラリー〉から台湾の戦中戦後を書いた小説が立て続けに刊行されたが、本書はさらに同時代の少数民族の様子を教えてくれる。

 ヴィクトリア・ロイド=バーロウ『鳥の心臓の夏』(上杉隼人訳/朝日新聞出版)は二〇二三年にブッカー賞候補となったデビュー作。一九八〇年代の英国湖水地方で、人付き合いが苦手で独自のこだわりが多いシングルマザーのサンデーは両親が遺した家で娘とつつましく暮らしている。ある日、隣家に都会的で大胆な五十代の美しい女性ヴィータがやってくる。サンデーは率直で奔放な彼女にほだされ、やがてその年下の夫やサンデーの娘ドリーも加えた家族ぐるみの付き合いを始める。だがヴィータにはときに極端なふるまいに及ぶ傾向があり、転居で人間関係や評判をリセットしたふしがあった。やがてドリーのためのパーティーで、サンデーにとってショッキングな出来事が起こる。著者はブッカー賞にノミネートされた作家で自閉症(ASD)であることを公に認めた最初の人物だ。本書は昔を舞台に選び、病名やその重篤さを示さぬままに登場人物の神経多様性(ニューロダイバーシティ)を描いている。本書の本質は「家族を愛し世話すべし」という規範から外れた女たちの話で、障害の有無に関わらず、逸脱した女性たちの社会生活の困難を丁寧に描いている。人間観察の緻密さから私はパトリシア・ハイスミスを連想した。結末の静かな平穏や愛が好ましい。

 残りの三冊はいずれも二十世紀初頭に生まれ、生誕の地から遠く離れた女性作家の本である。

 張愛玲『半生の絆』(濱田麻矢訳/ハヤカワepi文庫)は、二十世紀の中国文学を代表するひとりの新訳長編である。一九二〇年、上海で名家に生まれ国際的な環境で育った著者は、四〇年代に日本統治下の上海で若くして作家としての名声を得る。しかし戦後は一転、日本に近い人物として白眼視され、米国に移住してその地で結婚し、亡くなった。中国では長らく批判的な評価を受け、著書が発禁の時期もあった。本書は、彼女が戦後すぐ上海の新聞に別名義で連載し、一九六〇年代に改題・改稿して台湾で出版した作品で、たびたび映像化されている。

 私は本書が恋愛や女性の苦難を書いていると聞いて躊躇していたが、いざ手に取るとあっという間に読んでしまった。あらすじはこうだ。同僚として出会った男女、世鈞と曼楨はやがて結婚を考える仲になるが、曼楨の姉が家計を支えるためダンサーや高級娼婦として働いていた件にはばまれ、関係も壊れる。おまけに曼楨の姉の内縁の夫は曼楨を一方的に見初めて無理やり手籠めにし、家に監禁した。世鈞はてっきり彼女にフラれたと思いこむ。こうして一生を共にするはずだった二人はそれぞれ別の人と家庭を持つ。曼楨は不遇だが非常に芯が強い。十数年後の二人の再会と結末は悲劇的ではない。著者自身が歴史の変化に翻弄され、複数回結婚したことを思えばいっそう深くしみる。

 レオノーラ・キャリントン『石の扉 キャリントン中・短篇集』(野中雅代訳/国書刊行会)は〈シュルレアリスム叢書〉の第二回配本。著者は一九一七年に英国に生まれ、パリでシュルレアリスト集団に加わった画家・作家である。南仏に移り住み、第二次世界大戦のために米国、そしてメキシコに移住した。長らく邦訳されていなかった彼女の作品を、かつて二冊キャリントンの小説を翻訳し、本人とも交流のあった野中氏が再び日本に紹介する。神話伝承や怪奇小説からの影響を感じる内容で、登場するのは実にヘンテコな顔ぶれだ。猫の群れを引き連れた野生の女と、その夫の美しいイノシシの聖人との因縁の物語。肉食ウサギ。馬と人の間に生まれたらしき奇妙な仔馬。おまけにトゲのある木苺、ナルシスト、膨張して破裂する生き物といったモチーフがくりかえし使われる。民話パロディ風の小品「グレゴリー氏の蠅」では呪術医をあざむいた男が、報いを受けてすごい色と形に変貌してしまう。

 クラリッセ・リスペクトルは一九二〇年生まれで、ウクライナで誕生し、生後すぐ一家でブラジルに移住した。彼女の新刊『水の流れ』(福嶋伸洋訳/河出書房新社)の説明は難しい。いかに評しようと、水の流れを手にすくって見せるような野暮になってしまうのだ。本書は思考や想像力の流れをそのまま記したような小説で、筋らしいものはない。水流のように常に動き、形を変え続けて読者を圧倒する。著者の野生や未開への関心は明らかだ。最後の一文「あなたに書いているものは続いてゆき、わたしは魔法にかかったように有頂天になっている。」が示すように、全編がワイルドで、マジカルで、セクシャルである。言葉の奔流に身をまかせよう。

(本の雑誌 2025年7月号)

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●書評担当者● 橋本輝幸

1984年生まれ。書評家。アンソロジストとして『2000年代海外SF傑作選』『2010年代海外SF傑作選』、共編書『走る赤 中国女性SF作家アンソロジー』、自主制作『Rikka Zine vol.1』を編集。
現在、道玄坂上ミステリ監視塔(Real Sound)や「ミステリマガジン」新刊SF欄に寄稿中。

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