阿部暁子『パラ・スター』に泣きっぱなしだ!

文=北上次郎

  • パラ・スター 〈Side 百花〉 (集英社文庫)
  • 『パラ・スター 〈Side 百花〉 (集英社文庫)』
    阿部 暁子
    集英社
    638円(税込)
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  • 愛するいのち、いらないいのち
  • 『愛するいのち、いらないいのち』
    冨士本 由紀
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 いやあ、すごいすごい。こんなに泣いたのは近年初。いくら涙腺が崩壊しかかっているとはいえ、泣きっぱなしというのは珍しい。阿部暁子『パラ・スター』(集英社文庫)だ。二月に「Side 百花」が出て、三月刊の「Side 宝良」で完結。車椅子テニス小説である。

 帰宅途中にトラックに跳ねられ脊髄を損傷して家にひきこもっている宝良を、福岡県で行われる車椅子テニスのジャパンオープンに百花が誘うシーンがある。「九州なんて遠いところ行けるわけない!」と宝良が拒否すると、母親の紗栄子が「行きなさい、宝良」と凜とした声で言う。その瞬間、私の涙腺が崩壊した。「Side 百花」の一〇九ページだ。まだその巻の三分の二が残っているというのに、そこから最後まで泣きっぱなし。いやはや、大変だった。電車の中で読まないように、と書いておきたい。

 急いで付け加えておけば、泣いたからといって、その小説が素晴らしいということにはならない。泣く、というのは身体的な反応にすぎないのだ。いまさら書くまでもないが、小説の評価とは関係がない。この『パラ・スター』二部作が素晴らしいのは、続く「Side 宝良」との対比にある。二部作の上巻にあたる「Side 百花」が、車椅子メーカーに勤める百花の側から描くのに対して、下巻にあたる「Side 宝良」はプレイヤー宝良の側から描くのである。この宝良がのちに「氷の王女」と言われるくらい醒めたキャラクターであることに留意。たとえば体験テニスを申し込んできた小学生の相手をつとめるときも、手を抜くということを知らないので厳しいボールばかりを打ち込み、コーチから「おとなげねー」と言われてしまうほど、徹底してクールなのだ。紗栄子と宝良は、愛想笑いをしたことがない母娘、というのがいい。この性格が効いている。つまり、ホットな百花に、クールな宝良。この対比と構成が本書のキモといっていい。

 もちろん、スポーツ小説であるから、ラスト五〇ページの試合の迫力も半端ない。「Side 宝良」のクライマックスは、ジャパンオープンの準決勝。日本の車椅子テニスの№1プレイヤー七條玲との試合だが、百花に連れられて観に行ったジャパンオープン(そのときに優勝したのが七條玲だ)から五年後、ついに宝良は七條玲と対決するのである。

 阿部暁子はライトノベルで活躍していた人で(デビュー作『屋上ボーイズ』がコバルト文庫から刊行されたのは二〇〇八年だから、もう一〇年以上前だ)、一般文芸に進出したのは、二〇一八年の『室町繚乱』。本作が二作目である。その『室町繚乱』も面白かったが、一転してスポーツ小説を書くところにこの作家の懐の深さがある。今後の活動にも要注意だ。

 今月はおすすめ作品が多い。次は、冨士本由紀『愛するいのち、いらないいのち』(光文社)。あのダメ男小説の傑作『しあわせと勘違いしそうに青い空』(文庫化に際して『勘違いしそうに青い空』と改題)が出たのは二〇〇九年だから、こちらは一一年ぶりの新作だ。ヒロインの文音は五九歳。無職の夫、和倫六五歳と古びた団地で暮らしている。文音は契約社員として働いている。データの出入力といったオペレーター業務が主体の仕事で、給料は安い。しかしこれまでの貯金があるし、贅沢しなければ生活していくことは出来る。二人なら。

 問題はそこに父親の介護という難題がふりかかることだ。遠く離れた郷里に独居の父がいるのだ。実の父ではない。母が再婚した相手で、可愛がられた記憶もないが、その介護の責務がヒロインにまわってくる。何度も郷里に帰っていたら交通費もバカにならないし、仕事だってそんなに休めない。さらに、煙草をやめない和倫の咳がひどくなり、この先の展開は書かないでおくが、闘病生活が始まるのである。生活費はどうするのか、医療費はどうするのか。厳しい現実がどっとのしかかってくる。その暗く辛い日々を、克明に描きだしていくから、やりきれなくなる。リアルな話だ。これが私たちの現実だ。そんな気もしてくる。だから、目を背けることが出来ない。

 朝倉宏景『空洞電車』(双葉社)もいい。こちらは青春小説だ。天才的なリーダーを失ったバンドメンバー五人の「その後」を描いていく。五人にはそれぞれの事情があるとの展開は常套的でも、その殻を破ろうとする意思があり、それが読み手の胸に躍動感を伝えてくる。まだ粗削りな部分は残っているが、数作後には傑作を書いてくれそうな予感があるので目が離せない。

 今月の最後は、小野寺史宜『今日も町の隅で』(KADOKAWA)。著者初の短編集である。

 深い理由はないのだが、小野寺史宜に短編は似合わない──勝手にそう思っていたが、これが意外にいいのだ。勝手に決めつけてすみません。一一歳から四二歳までの男女を主人公にした各編に共通するのは「蜜葉市四葉」という町を舞台にしていること。「君を待つ」の夫婦はみつば南団地D棟二〇三号室に住んでいて、「ハグは十五秒」の守と好美はその隣の二〇二号室に住んでいる。待てよ、この「蜜葉市四葉」は聞いたことがあるな。なんだったろう。筧ハイツの例があるから油断できない。「冬の女子部長」に出てくる母親のキャラがよく、「君を待つ」の温かな感じが捨てがたく、「チャリクラッシュ・アフタヌーン」のラスト一行が素晴らしい。しかし、いちばんの発見は、小野寺史宜の小説を手にするときは胸がこんなにも躍るということだ。読む前からなんだかわくわくしているのだ。こういう作家はいま少ない。

(本の雑誌 2020年5月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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