一瞬の家族の光景を切り取る寺地はるな『水を縫う』

文=北上次郎

 高校生の清澄が言いだして、でもうまくいかなくて、結局は父親の全が仕立てたドレスを、姉の水青が着て、立ち尽くすシーンがある。かわいいものが嫌いだといつも言っていた水青は、童話のお姫様のように気高く、美しい。

 それを離れた場所から見ているのは、黒田だ。全の専門学校時代の友人で、いまは縫製工場を経営している。行き場のない全を、専属デザイナーとして雇っている。この全という男は、歩きながらスケッチするせいでしょっちゅう車に轢かれそうになるし、財布を忘れるか落とすかして頻繁に一文無しになったりする。そのたびに黒田は面倒を見てきた。

 給料を全額渡すと使ってしまうので二人の子の養育費を天引きし、全の別れた妻のもとに毎月届けている。振込にしないのは、そのたびに子供たちの写真を撮り、全に見せるためだ。清澄が幼いときには運動会にまで足を運び、応援してきたからまるで本当の父親のようだ。いま黒田が見ている光景は、次のように描かれている。

「清澄が頬を紅潮させて、駆け寄っていく。なにごとかを言ったようだったが、聞きとれなかった。全がこれまたなにごとかを言い返して、それから清澄の頭に触れた。髪をかき乱された清澄が、ふわりと表情をゆるませる」

 この光景がなんだか切ない。書名の紹介が遅れてしまった。寺地はるな『水を縫う』(集英社)だ。

 この長編は、清澄、水青、そして母親のさつ子、祖母の文枝、さらに別に暮らしている父親の全。その松岡家の面々が順に語り手となる連作で、黒田は物語的には脇の登場人物にすぎないのだが、この黒田がいることで物語に奥行きが生まれていることに留意。みんなが別の方向を見ているように思える松岡家の、それは一瞬だけ寄り添う光景にすぎないのかもしれないが、しかし黒田にとっては、まぶしいのだ。一瞬でしかないのかもしれないが、その一瞬を持つことができるのもまた「家族」なのである。その真実が、このシーンからゆらゆらと立ちのぼってくる。うまいなあ寺地はるな。

 興味深く読んだのが、桂望実『結婚させる家』(光文社)。カリスマ結婚相談員が主人公の連作だから、五〇代男女のさまざまなドラマを、いつものように軽妙に描いていくのかと思っていると、もっと複雑なドラマを作り上げるのである。それを象徴するのが、ヒロイン恭子が一八年ぶりにあさみを目撃する場面。恭子より一〇歳上だから、もう六〇代半ばのはずだ。その彼女がバス停留所のベンチで、スマホを手に、笑って誰かと話している姿を恭子は見るのだ。あさみがいまどういう生活を送っているのか、恭子は知らない。先の展開を書いてしまえば、このあさみはその後も登場しない。主人公がバス停で見かける人物にすぎない。しかし、その穏やかな笑顔が読み終えても残り続ける。ちらっと登場するだけの女性がこのように残るところに、この物語の奥行きがある。

 相談に来る男女だけではないのだ。世界はどんどんひろがっている。つながっている。そんな気がしてくるのである。

 意外だったのは、石田香織『うめももさくら』(朝日新聞出版)。運送会社の事務員として働くヒロインの日々を描く長編で、ダメ男の佐々木君(元夫だ)を始めとして、脇を固める人物がなかなかにうまい。軽妙なストーリーもよく、注文をつける箇所は一つもない。これで十分だ。

 そうわかっているのだが、この作家はこんなにも器用だったのか、という思いがある。二〇一七年の『きょうの日は、さようなら』と本書の間には大きな違いがあるような気がするのである。それをうまく言えないので、いま口ごもっている。しばらく宿題にしておきたい。

 小説外が二冊。野口孝一『銀座、祝祭と騒乱』(平凡社)と、高草操『人と共に生きる 日本の馬』(里文出版)だが、前者は幕末から戦時体制下までの銀座で何が起きたのかを克明に描いていく東京の近代史。たとえば、明治二五年から二年間だけ、銀座四丁目のそれぞれの角に新聞社があったという記述が本書にある。服部時計店のところに朝野新聞社、三越のところに中央新聞社、銀座プレイスのところに毎日新聞社、三愛のところに自由新聞社。新聞社がこのように銀座に集中していた時代があったのである。あるいは明治四一年、アメリカ大西洋艦隊が来航したとき、艦長や将校の夫人、令嬢が民間の船で来日し(さすがに大西洋艦隊に同乗したわけではなかったらしい)、三越呉服店に案内されて撮った写真が本書に掲載されている(だから大半が呉服を着ている)のも珍しい。

 他にも、大正九年一月の都新聞に載った「新語番付」で、「銀坐素見」が西の関脇になっていたり、昭和五年の銀座通り商店街一覧に「書籍 紀伊国屋」があったりと興味が尽きない。

 後者は、日本各地のさまざまな馬を追いかけているカメラマンの著者のエッセイ集。たとえば六七ページに、宮古馬に乗った人の後ろ姿の写真が掲載されているが、日本の在来馬がいかに小さなものであるか、その対比を実感できる。その宮古で明治時代に行われていたという「競馬」も興味深い。小刻みにできるだけ速く前進する「側対歩」という速足でなければダメで、サラブレッドのようにギャロップで走ると失格、というのだが、おお、これがよくわからない。その宮古馬はラブラドール犬のように人が好きで、誰にも擦り寄ってくるのだという。他にも多くのことを教えてくれる書で、楽しい。

(本の雑誌 2020年8月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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