王谷晶『ババヤガの夜』に血がどんどこ脈打つぞ!

文=北上次郎

  • 屋根の上のおばあちゃん
  • 『屋根の上のおばあちゃん』
    藤田芳康
    河出書房新社
    1,760円(税込)
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 なんだか愉しくなってくる。どんどこ血が脈打ってくる。王谷晶『ババヤガの夜』(河出書房新社)だ。

 暴力団に拉致されても音を上げず、果敢に闘うファイターながら、自分を襲ってくるドーベルマンを殺すことが出来ない。やくざを殴って失神させても犬は殺せないのだ。新道依子はそういうファイターだ。

 なぜ殺せないのか。人を疑うことを知らない目が忘れられないからだ。子供の頃に祖父が飼っていた犬のことだ。ちくわが好きな雑種犬で、こっそりあげたことがばれると「人間の食い物をやるな」と祖父に張り倒された。新道依子に懐いていたわけではない。気のいい犬だったが、主人は祖父と決めていたようで、最後の一瞬まで祖父と一緒にいて、雪に埋もれて死んだ。依子はその祖父に「お前は天稟がある」と北国で鍛えられた。その習練は厳しく、木刀で打つのになんの躊躇もなく、雪の積もる外で凍死寸前になるまで正拳突きをやらされ、組手では三度、骨を折られた。そのくだりを引く。

「力の中に身を浸すのが、楽しかった。自分が勝てばより楽しいが、圧倒的な力に晒されるのもぞくぞくした。痛みや悔しさすら刺激的で楽しかった。漫画や、音楽や、ファッションよりもそれはずっと楽しい娯楽だった。暴力は、気が付くと新道の唯一の趣味になっていた」

 新道依子はそういうファイターである。祖父母が亡くなったので東京に出てきたが、人に頭を下げるのは嫌いなので、いつか自前のトラックを買って運送屋として独り立ちするのはありかもしれないと考えていた。ところが夜の新宿で絡んできた男たちを殴り倒したら、後ろからビール瓶で殴られ、気がつくと暴力団の事務所にいた。

 本書はここから始まる物語で、彼女は組長の娘の運転手兼ボディガードになる。その日々で何が起こるのかはここに書かない。おお、そうきたかという仕掛けのある小説なので、それも書かない。暴力団の事務所で生活するようになっても、「飯、ここで食えるの」と勝手に食堂に入っていく姿を紹介するにとどめておく。

 王谷晶の作品集『完璧じゃない、あたしたち』は、ぎくしゃくした小説で、けっして完成された作品ではなかったが、きらりと光る箇所があり、強く印象に残った。本書は、その印象が間違いではなかったことを証明する一冊といっていい。

 今月の二冊目は、五十嵐貴久『命の砦』(祥伝社)。高層ビル火災を描いた『炎の塔』、船舶火災を描いた『波濤の城』に続く「消防士・神谷夏美シリーズ」の最終篇だが、今回もすごい。これまでの二作も圧倒的な迫力で読ませたが、新宿地下街の火災を描く本書も負けず劣らず、超興奮の極み。特に、物語の後半は息をつく暇もないほど、危機に立ち向かう人間たちの姿に圧倒される。これまでの二作もそうだったが、娯楽小説なのだから、最後には危機を回避することはわかっている。しかし、問題はどうやって事態を解決するのか、ということで、そのディテールこそがこの手のパニック小説のキモ。そのあたりが五十嵐貴久は実に巧妙だ。これで、「消防士・神谷夏美シリーズ」とお別れとはまことに残念である。

 藤田芳康『屋根の上のおばあちゃん』(河出書房新社)には、「第一回京都文学賞【一般部門】優秀賞受賞作」との帯が付いている。第一回だから初めて知る賞であるのは当然だが、「読者による文学賞第一回受賞」という帯のついた浅葉なつ『どうかこの声が、あなたに届きますように』が面白かったので(この賞もどんな賞なのか知らなかった)、一度あることは二度あるかも、と手に取ってみた。

 デジタルはフィルムに比べると長期保存に適していないということには驚いたが、回想で語られる戦前の太秦を舞台にした恋物語がなかなかいい。特に、ゑいが「根性なし!」と言うシーンは、まあ定番ではあるけれど微笑ましい。

 おやっと思ったのは、白川紺子『九重家献立暦』(講談社タイガ)。このタイトルで、章見出しが「花冷えと菜飯田楽」「茅の輪と梅干し」「夏雲に盆汁」と続くのである。これでは、旧家を舞台に、数々の料理が主役となる、ほのぼのとした連作集なのだな、と想像してしまうのも無理はない。たしかに外枠はそういう「よくある」物語ではあるのだが、実はもっと緊密で、もっと奥行きのある連作集だ。

 ヒロインの茜、祖母の千代子、茜の小学校時代の同級生・仁木一。この三人の奇妙な同居生活を描く長編だが、三人ともに「捨てられた者」という共通項がある。ここで語られるのはそのドラマだ。「ほのぼの」とは対極にあるドラマだ。

 小学生の茜を置いて家を出ていった母について、昔の友人の「あのひとは、きれいというか、じっと息をひそめてる豹みたいなひとだった」という言葉がずっと残り続ける。うまいなあ。

 初めて読むこの作家に俄然興味が湧いたので、これまでの作品も読んでみたいと調べたら、あまりに作品数が多くて断念。白川紺子に詳しい方がいたら、おすめ五~六作を教えてくれると嬉しい。

 今月の最後は、瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(発行水鈴社/発売文藝春秋)。月に一度のPMS(月経前症候群)に悩む藤沢美紗二八歳と、パニック障害に苦しむ山添孝俊二五歳の物語で、当人にとってそれはともに大変辛いことではあるのだが、それを温かく描く著者の筆致が素晴らしい。なによりも彼らを見守る栗田金属の社長を始めとする面々がいいのだ。その社長を救う山添君のラスト近くの台詞に留意。いい話だ。

(本の雑誌 2021年1月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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