産まれて死ぬことを抉る川上未映子『夏物語』

文=大塚真祐子

  • 慟哭は聴こえない (デフ・ヴォイス)
  • 『慟哭は聴こえない (デフ・ヴォイス)』
    丸山 正樹
    東京創元社
    1,760円(税込)
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 女性という性別で何十年生きていても、自分の身体のことがわからない。月経前の違和感や、陣痛の間隔が狭まる感じを体験として知っていても、そのとき体内で何が起きているのか、だるさや痛みをあらわす言葉でしか表現できない。が、結果として生まれた子の存在は圧倒的で、可愛いなどの形容詞を余分と思うほど、すでに自分とは別の独立した個人である。

 川上未映子『夏物語』(文藝春秋)を、性とセックスの物語と言う人もいれば、家族をめぐる小説、出産の意味を問う作品と言う人もいるだろう。この物語がはらむ多くの断面は、その光のあて方によって変化する。小説家をめざしながら東京で暮す三十歳の夏子のもとに、大阪から姉の巻子と娘の緑子がやってくる第一部と、小説家となった三十八歳の夏子が自分の子を産むことに思いを深める第二部から作品は成る。

 第一部は芥川賞受賞作の『乳と卵』を下敷きにしている。加筆修正は部分的で、細部を含め概ね元のままと言っていい。今作の核心は性行為を好きになれない夏子が、結婚せずパートナーももたずに、第三者による精子提供(AID)を受け出産することを企図する第二部にある。ではなぜ受賞作を改作してまで、第一部がおかれたのか。

『乳と卵』は豊胸手術を目論む巻子、会話を拒み筆談する緑子母娘のやりとりを中心に、女性の揺らめく身体性を浮きぼりにした。一方、語り手である〈わたし〉の背景はほとんど語られない。〈わたし〉=夏子のその後と、二〇一九年に生きる女性を連ねて書くというのが、今作の目的の一つだと思う。共感にせよ嫌悪にせよ、女性として生きる読者はこの物語のどこかに自分の欠片を見るはずだ。

〈わたしは成瀬くんの、というよりも男の人の──性的な求めには必ず応じなければならないと思いこんでいたのだ。〉
〈一生懸命に生きてきたつもりではあるんだけど、そうするとその流れに──なんていうか、子どもっていうものが入ってくる余地がなかった、っていうのがいちばん自然かな。〉
〈自分の子どもがぜったいに苦しまずにすむ唯一の方法っていうのは、その子を存在させないことなんじゃないの。〉

 産むか産まないかを女性たちに問うのは誰なのか。どちらの選択肢にも明確なイメージを描くことができなかった自分は、知らぬ間に有効期限が切れるかもしれないことだけがただ怖かった。AIDで生まれ、育ての父親から虐待を受けていた善百合子の〈子どものことを考えて、子どもを生んだ親なんて、この世界にひとりもいないんだよ〉という発言は一つの真実だろう。〈なんで、人を大切に思う気持ちと体のこの部分が、こんなに密接にかかわらなければならなかったんやろう〉という夏子の問いにも答えはない。人が産まれて死ぬということのわからなさと果てしなさを、この物語はどこまでも抉りつづける。

 丸山正樹『慟哭は聴こえない デフ・ヴォイス』(東京創元社)もまた、産むこと、産まれることの不条理を別の形で突きつけてくる。ろう者の両親を持つ聴者の子(コーダ)として育った荒井尚人が、生活のためやむをえず手話通訳士の資格を得たことで、ある事件に直面する『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(文春文庫)からはじまるシリーズは、今作が三冊目となる。

 ろう者について理解している気でいた自分に、この作品との出会いは衝撃だった。コーダの存在も、日本手話と日本語対応手話の違いもなにひとつ知らなかった。今作も四つの事件を軸に、ろう者の一一〇番通報や、特定の地域に伝わる手話の実情が明らかにされる。

 一方、荒井との関係を育んできたみゆきと、みゆきの娘の美和は、今作で荒井の家族となる。荒井とみゆきの間には女の子が産まれるが、やがて「聴こえない子」であることが判明する。

 人工内耳にするかしないか。乳児本人に意思確認はできず、親が決めなくてはならない。「聴こえない」なら「聴こえる」に近づくことが幸福だと当たり前に考えていた自分は、逡巡の末にたどりついた二人の決断の前で立ちつくした。マジョリティの側にいることはあなたの武器ではない、マイノリティの側にいることがあなたの欠陥ではないと、この物語から聴こえるさまざまな声が、自分に諭す。ジャンルをこえて広く読まれてほしい一冊だ。

 第三十二回三島賞受賞作、三国美千子の『いかれころ』(新潮社)が書くのは昭和五十八年、南河内に暮らす杉崎一族の営みが、四歳の奈々子の視点で綴られる。

〈冠婚葬祭の儀礼にはその家の生まれ持った性みたいなものが生々しく出た〉とあるように、奈々子の叔母で、精神を病む志保子の縁談にまつわる因習がこの作品のハイライトだが、女性の理不尽を昭和の結婚に見出しながら、精子提供を受けようとする現代の女性を書いた作品が同時期にあらわれることを興味深く感じる。本家と分家の差異、若くして自死した者の血、土地に伝わる差別などが、衰退を予感させる一族の姿とともに、鮮やかに紡がれていた。

 早坂類『風の吹く日にベランダにいる』は、九三年に河出書房新社から「同時代の女性歌集」シリーズとして刊行されたが、現在は入手困難となっている。

 その早坂類の歌集が刊行された。『早坂類自選歌集』(RANGAI文庫)には、もちろん『風の吹く日―』からの抜粋もある。好きだった歌が変わらずそこにあった。

〈かたむいているような気がする国道をしんしんとひとりひとりで歩く〉
〈カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした〉

(本の雑誌 2019年8月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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