絲山秋子『御社のチャラ男』は会社員小説の金字塔である!

文=大塚真祐子

  • やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)
  • 『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』
    悠生, 滝口
    NUMABOOKS
    1,980円(税込)
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 サラリーマン小説とも経済小説とも異なる「会社員小説」をひとつのジャンルととらえ、物語から炙りだされる「会社員」の姿をじっくり論じたのが、二〇一二年刊の伊井直行『会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって』(講談社)だ。本書で著者は、会社員小説が仕事か家庭のどちらかを書くことでしか成立しない傾向にあることを〈ゆゆしい問題〉とし、絲山秋子の『沖で待つ』についてもその巧みさを称賛したうえで、〈登場人物に私的な側面が欠如している〉と言及した。『御社のチャラ男』(講談社)は、伊井が論じた会社員小説に対するひとつの返答なのかもしれない、とふと思った。

 地方都市にある「ジョルジュ食品」の社員と、その周辺の人々を章ごとに語り手にした連作短編だ。人々はそれぞれの印象で、自らが関わった部長のチャラ男=三芳道造(44歳)を語る。
〈このひとの話すことって、コピペなんだ。ひとから聞いたこと、ビジネス雑誌に書いてあったこと、ネットのまとめの受け売りなんだ。〉

 じつは政治家をめざしているという総務の池田かな子(24歳)がチャラ男に抱くのはいかにもチャラ男然としたイメージだが、複数の"チャラ男評"に触れるたび、不思議とチャラ男がチャラ男のまま、人間として厚みを増していることに気づく。チャラ男にもチャラ男になるまでのいきさつがある。自らを報われない男とするチャラ男と、〈わたしは救われない〉という山田秀樹(55歳)の、互いに嫌悪しながらもどこか共通して持ち合わせる閉塞感も興味深い。窃盗癖のある山田は会社を追われるが、同僚の岡野繁夫(32歳)はそれを受けて、〈悪いことをするのは悪いひとだからだろうか。〉と述懐する。この一言は物語の最後まで、ぼんやりと尾を引く。

 章にはタイトルとともに語り手の名前と年齢が明記されるが、世代が背負うものやその差異をうっすらと浮き彫りにする作品でもある。同様に会社における男女の扱いの違い、そのあり方の変化についても触れる。こうなると登場人物の誰が好きとか共感するとかいう話になりそうな気もするが、不思議とそういう観点にならない。どの章のどの人物にも、少しずつ自分がいて、あなたがいて、チャラ男がいる、というような俯瞰で読む。さまざまな年代のさまざまな背景をもつ人間が一堂に会する会社という舞台が、それを可能にするのかもしれない。

〈会社員でいるということは、明確な役割で一つの時代を生きることなのだと、池田かな子は思う。ただ単に経済のふるまいに身を置くということではなく、もっと能動的なことだ。〉

 今作は会社や仕事を語る絶妙な"名言"に事欠かないが、この一文は、会社員とは何かということについての核心を端的にあらわしている。あわせて〈明確な役割〉の裏側にある各人の私性を、それぞれに愛情をもって書ききったこの作品は会社員小説の金字塔と言っていいだろう。会社員という存在はこんなにも奇妙で面白い。

 高山羽根子『如何様』(朝日新聞出版)は読んだ先から煙にまかれるような、摩訶不思議な作品だ。

 終戦後まもなく復員し家族のもとに戻ってきた水彩画家、平泉貫一だが、出征前とまるで姿が違う。戦争の過酷さが人を変えたというような次元ではなく、〈どう見ても別人〉ではないかということで、依頼を受けた女性記者の「私」は、彼の妻であるタエや、編集者の榎田、妾のクマや画廊主の勝俣など、彼の周囲の人々から話を聞き、その正体を探りはじめる。

 真贋がその存在意義に大きくかかわる美術作品の前提を物語の底にたゆたえながら、本物とは何か、偽物とは何かということをさまざまな角度から問う。

〈ただ、まったく同じもののうちひとつが本物であったとわかったとして、ほかの残りは絶対に偽物なのだろうか?〉

 同様の問いが形を変えて繰り返されるうち、自分の価値観もどんどん揺さぶられる。本物と偽物、幻想と現実、ある二項のあいだの揺らぎを繊細に描きだすのは、この著者の紡ぐ小説の一貫した魅力でもある。

 小野正嗣『踏み跡にたたずんで』(毎日新聞出版)も不可思議な小説集である。

 土地の物語だ。といっても特定の、一定の場所というわけではなく、語り手は移動している。行く先で出会う人々、起こる出来事が淡々と記されると思いきや、ふいに背中を押されるように物語が現実から外れていて、この外れる感覚のつみ重ねがなぜかしら心地よい。いくつもの土地とその歴史が自分の中で大きな地図となって、訪れた地点のひとつひとつに印をつけているような気持ちになる。差し挟まれるモノクロの写真がさらに想像をかきたてる。

 滝口悠生『やがて忘れる過程の途中』(NUMABOOKS)は、二〇一八年十一月号の当欄で紹介した柴崎友香の小説『公園へ行かないか? 火曜日に』と同じく、アイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)に参加した著者の、こちらは日記である。ぜひあわせて読んでほしい。

 英語が苦手と言う著者ははじめ、世界各国から集まる作家たちの国籍も会話の内容もわからない。だから日記に書かれた出来事と、日記が書かれるまでにタイムラグが生じる。このときはわからなかったがこうだったというように。このずれが日記に流れる時間を重層的、立体的にし、日記の読み手である自分の時間も一緒に取り込まれていくように感じる。読み手のわたしも徐々にわかっていく。日々の記録の合間で、彼らの話していることや彼らの国のことを。他人の日記がこんなにも心をうつのはなぜだろう。

(本の雑誌 2020年4月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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