出会いの切実な瞬間を描く津村記久子の短編集

文=大塚真祐子

 奇妙なことを言いだしたと思われるかもしれないが、小説の登場人物たちは、はたして普段本を読むのだろうか、ということを、津村記久子の短編集『サキの忘れ物』(新潮社)を読んでからずっと想像している。

〈これまでの人生で、最後まで読めた本は一冊もない。国語の教科書に載っていた小説なら、授業で読んだことはあるけど、誰も恋に落ちたり死んだりしないから起伏がなくて、何がいいのかわからなかった。〉

 表題作「サキの忘れ物」で、高校をやめ喫茶店でアルバイトをする千春は、常連の女性客が忘れていったサキの文庫本をこっそり持ち帰る。前述のモノローグののち、ではなぜ持ち帰るのかと言えば、別れた恋人ともし結婚して女の子が生まれたら、「サキ」という名前にしたかったのだ、ということを思い出す。10代の女の子の他愛ないエピソードのように読めるが、一方で千春の日常には鬱屈と葛藤がたゆたう。楽しくないという理由でやめた学校、無関心な両親、夢中になれるもののない自分。

 そんな千春の目の前に現れたのがサキだ。イギリスの小説家であり、オー・ヘンリーと並ぶ短編の名手である、とウィキペディアは記す。〈読めるけど意味のわからない単語がいくつか出て〉きたため、一度は読むことを諦めた千春だが、どうしても気になって書店に寄り、自分の手で初めて文庫本を購入する。

〈いつもより遅くて長い帰り道を歩きながら、千春は、これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない、とずっと思っていた。それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたいと思った。〉

 わたしが小説を読むようになったのは、そこに現実とは別の町や国があり、その土地で生きる自分の想像に際限がないことが、幼少の自分を解放させたからだ。怖いものなどないと思える朝も、間違った言動を悔いる夜にも、ひとしくひらかれたもう一つの世界がいつもそこにあった。

 だから自分は本を読みきったことがないという千春に、共感しているわけではない。ただ、今とても大事な瞬間に立ち会っている、とページを繰りながら息をつめる。千春は自らの力で本の言葉に出会おうとしている。その過程をあまりに近い場所で自分は見つめている。千春は数年後、書店員になる。

 サキであること、また小説であることに必然性はない。ただ人が何かに出会うこと、その体験をこんなにも切実に、またまっすぐに差し出す物語にまず感嘆した。

 津村記久子の小説は、社会をうっすらと支配する体制的なものへの抵抗を、小さな景色を丁寧に重ねることで、ときにユーモラスに、ときに繊細に描き出す。今作はどの短編もバラエティに富んで読み応えがあるが、津村作品のエッセンスが最も精密に結晶したのが、この表題作であると言っていいだろう。

 柴崎友香『百年と一日』(筑摩書房)を読みながら、ここには書かれていない誰かの物語を想像する。

 掌編と呼べるくらいの長さで淡々と切り取られた数多の生が、本書には収められている。文体や物語の起伏を愉しむような作品集ではなく、こうしている今も流れていく名前のない時間、名前のない一日のうちに、たまさか重なる人、重なる物事の姿を、ただ静かに照らす光のような言葉の群れだ。

 目次に記された一話一話の長文のタイトルは、そのことを如実に表す。たとえば、〈一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話〉や、〈銭湯を営む家の男たちは皆「正」という漢字が名前につけられていてそれを誰がいつ決めたのか誰も知らなかった〉話などだが、これが面白いのかと問われれば、驚くほど面白い。

 日々のニュースや、のちに歴史と呼ばれるような出来事の内側には、自分も含め膨大な数の個人の営みがある。そのすべてを掬いあげることはできないけれど、そうした無名の時間や景色がこの世界には溢れていることを、この作品集は丹念に教えてくれる。この物語に書かれていない誰かとはわたしであり、わたしはきっとあなたでもある。とるに足らないわたしたちの、とるに足らないひとときの積み重ね、その比類なきかけがえのなさ。

 このようなひとときを、〈私が今まで通り過ぎてきた記憶のざらざらとした部分、なめらかには進めなかったけれど、とんでもないでこぼこでもなかったな、という部分〉と呼び、その手ざわりを確かめるように書かれたのが、イラストレーターの三好愛による、初のエッセイ&イラスト集『ざらざらをさわる』(晶文社)だ。

 ざらざら、という響きは、違和感とほのかな中毒性をひとしく想像させる。著者独特の感触や感覚を、書籍の装画などでよく見かける、あの丸い目だけの不思議な生き物のイラストとともに、ほどよく力の抜けた言葉でゆるゆると綴る本書も、まちがいなく癖になる一冊だ。

 千種創一歌集『千夜曳獏』(青磁社)は、造本も話題となった第一歌集『砂丘律』に続く二冊目の歌集。今作も繊細な装丁が指に心地よい。

 八八年生まれと若い歌人だが、平易な言葉の連なりのなかに、普遍性と新しさを同じ重みで感じさせる。恋愛や性愛の歌で溢れているのに、相手の像がまったく結ばないのはなぜだろう。著者は三十一文字をとおして、ひたすら自分の孤独を研ぎすましているように見える。気になった一首。

〈あなたがたまに借りて返しに来るための白い図書館になりたい〉

(本の雑誌 2020年10月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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