現代を描く巨匠の円熟作『スパイはいまも謀略の地に』に◎!

文=小財満

  • スパイはいまも謀略の地に
  • 『スパイはいまも謀略の地に』
    ジョン・ル・カレ,加賀山 卓朗
    早川書房
    2,530円(税込)
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  • 壊れた世界の者たちよ (ハーパーBOOKS)
  • 『壊れた世界の者たちよ (ハーパーBOOKS)』
    ドン ウィンズロウ,田口 俊樹
    ハーパーコリンズ・ ジャパン
    1,420円(税込)
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  • 死んだレモン (創元推理文庫)
  • 『死んだレモン (創元推理文庫)』
    フィン・ベル,安達 眞弓
    東京創元社
    1,320円(税込)
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  • パーキングエリア (ハヤカワ・ミステリ文庫 ア 20-1)
  • 『パーキングエリア (ハヤカワ・ミステリ文庫 ア 20-1)』
    テイラー・アダムス,東野 さやか
    早川書房
    1,188円(税込)
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  • もう終わりにしよう。 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『もう終わりにしよう。 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』
    イアン・リード,坂本 あおい
    早川書房
    1,012円(税込)
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 ジョン・ル・カレ。六〇年代のデビューから五十年以上スパイ小説を書き続けてきた巨匠の二〇一九年発表──御年八十七歳時の作品『スパイはいまも謀略の地に』(加賀山卓朗訳/早川書房)が早くも邦訳となった。直近の英国をとりまく国際情勢──英国のブレグジット(EU離脱)とトランプ大統領のアメリカ第一主義に揺れる米国、そしてヨーロッパの覇権を狙うことを隠さないロシアを取り上げながら、現代を生きる人々を描いた、これぞ巨匠円熟の極みと言いたくなる作品だ。

 英国秘密情報部(SIS)の情報部員ナットは長年の海外での活動を経て、引退を前に英国に帰国する。だがナットは自身が専門とする対ロシアの組織ながら役立たずの亡命者と情報屋をまとめる遊休組織〈安息所〉を任されることに。部下のフローレンスとともにロシアの怪しげな資金の流れの情報を追うかたわら、ナットは趣味で続けているバドミントンで彼に試合を申し込んできた、現代の英米の情勢に不満を抱く若者エドと交流を深めていく。だがその二つの出来事がナットを窮地に陥らせることになるとは、まだ誰も知らなかった。

 訳者あとがきにおいて触れられているが、ル・カレが本書についてのBBCのインタビューで"decency"(まっとうさ、品性、良識)について語ったという点については非常に納得できる。良識や品性を是としないはずの陰謀の世界にあって、ナットは古き良き時代を過ごした大人として若者たちに、そして読者に、ある"decency"を示すのだ。現在の各国の一国主義が興隆し、国際協調という意味では良識と縁遠くなりつつある今こそ読まれるべき作品だろう。また本作のある仕掛けも長年スパイ小説が書かれ続けてきた中で「おお、こんなネタがまだ残っていたか」と思わせる、謎解きミステリの読者も押さえておくべき作品だ。

 ドン・ウィンズロウの新作、『壊れた世界の者たちよ』(田口俊樹訳/ハーパーBOOKS)は六篇からなる作者の多彩な魅力が詰まった中篇集だ。『犬の力』から始まる麻薬戦争三部作が作者の現実への怒りに引っ張られた強烈な作品だったからみんな忘れているだろうけど......オレってもちろんこんなのも書けるんだぜ、と言わんばかりの。

 スティーヴ・マックイーンに捧げられた小粋な犯罪小説「犯罪心得一の一」、エルモア・レナードに捧げられたドタバタ喜劇&青年警官の成長譚「サンディエゴ動物園」、テリー・レノックスならぬテリー・マダックスという男の行方を追う、という筋のレイモンド・チャンドラーに捧げられた一作で、往年のウィンズロウのファンへのサービス精神が発揮された──なにせサーファー兼探偵のブーン・ダニエルズと、作者と同い年の六十五歳になった元青年探偵ニール・ケアリーのダブル主人公だ──探偵小説「サンセット」、メキシコからの不法入国者の悲哀を描いた現代のウエスタン小説「ラスト・ライド」など、どの作品もウィンズロウの広範な興味とバックグラウンドを示す一級の犯罪小説だ。

 ニュージーランドからのニューカマー、フィン・ベル『死んだレモン』(安達眞弓訳/創元推理文庫)は冒頭、主人公が危機に陥るところから始まるというサスペンスフルな展開で魅せる謎解きミステリだ。謎解きの後、主人公が犯人たちと対決する現在のパートと、その対決までに至る、下半身不随で車椅子生活となった主人公が、心機一転の引っ越し先である一軒家で過去に起きたという誘拐殺人事件の真相を探る、というパートが交互に語られる。その両方のパートがそれぞれ違った魅力で読者にページを繰らせてくれる一風変わった作りだ。そんなサスペンス中心の物語の合間に読者にまったく予想のつかない方向での伏線を紛れ込ませているところも面白い。謎解きミステリの読者は読み落としなきよう。

 テイラー・アダムスという米国の作家の第三作にして初の邦訳作品『パーキングエリア』(東野さやか訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)は登場人物は六人のみという潔さながら、吹雪のパーキングエリアという閉鎖空間でジェットコースター・スリラーを成立させた豪腕を評価したい。危篤の母親に会うための道中、雪嵐の山中でパーキングエリアに立ち往生してしまった女性が、そのパーキングエリアに居合わせた男女四人と出会う。だが彼らの車の一台に少女が監禁されていることを知ってしまった彼女は次々と悪夢のような出来事に襲われる。作品の手法は作者が影響を受けたと語るスコット・スミスの代表作『シンプル・プラン』と近く目新しさがあるわけではないが、孤軍奮闘する主人公の芯の強さの表現や、主人公と母親の関係性が物語を通して変化していく様が描かれているあたりのサブストーリーの書き込みを見るに力のある作者であることは間違いない。

 Netflixで映像化が決まっているというカナダ人作家イアン・リードのデビュー作『もう終わりにしよう。』(坂本あおい訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)はカップルである男女の不穏な会話劇で読ませる心理スリラーだ。二人が男の実家に行き、謎の男からの無言電話に悩む女性が、交際相手の男の両親に挨拶をするまでのシーンの合間に、おそらく二人の帰省の後、なにかしら常軌を逸した形で家から死体が発見されたことが語られるのだ。謎解きミステリ的なアプローチではないが、読了後には「何が起こっていたか」という事態の真相を読者に解釈させる作りになっている。作中で哲学的な問いが男女の間で交わされるが、本作を再読すればその会話から一度目では見えない景色が見えてくるはずだ。

(本の雑誌 2020年10月号掲載)

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●書評担当者● 小財満

1984年、福岡県生まれ。慶應義塾大学卒。在学中は推理小説同好会に所属。ミステリ・サブカルチャーの書評を中心に執筆活動を行う。

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