転落中間管理職が裏社会の修羅場を走る!
文=千街晶之
決められたレールから一度転落したら元には戻れない現代社会。ならば、転落した時はどうすればいいのか......のヒントになるかも知れない小説が、福澤徹三『羊の国のイリヤ』(小学館)である。主人公の入矢悟は、食品メーカーに中間管理職として勤務、妻子と同居の五十歳。ある時、会社の不正を知った彼は、告発に協力しようとしたため子会社に飛ばされる。その現場のブラックぶりに抗議すると、今度は冤罪を着せられて逮捕され、家族は彼のもとを去ってしまう。
主人公の転落を徹底的に描いたという点では、著者の旧作『東京難民』と好一対の内容。ただし『東京難民』の主人公の青年がルーズな性格だったのに対し、本書は真面目に会社員生活を送っていた主人公が、正義感を発揮したために地獄に突き落とされたかたちである。だが、裏社会の暗殺者・四科田との出会いが入矢の人生を変える。四科田に殺されかかった彼は、娘を助けたいからと命乞いして半年の猶予を獲得し、自らも裏社会へと踏み込む。決してヒーロー型ではない彼が、それまで完全に無縁の世界だった裏社会の掟や価値観に触れたことで、羊から狼へと変貌してゆくのだ。四科田らに援護されながら、半グレ集団・悪徳芸能事務所社長・暴力団などを相手に回し修羅場を潜り抜けるに至る後半の展開に絶妙なリアリティがあるのは、著者一流のディテール描写の説得力の賜物だ。
柚月裕子『暴虎の牙』(KADOKAWA)は、『孤狼の血』『凶犬の眼』と続いてきた、昭和末期の広島県を舞台にしたシリーズの第三作。前半は『孤狼の血』から時系列をやや巻き戻し、愚連隊・呉寅会の台頭を描く。沖虎彦が率いる呉寅会は、ヤクザすら恐れさせる勢いで暴れ回るが、そんな沖の前に県警暴力団係の刑事・大上章吾が現れる。後半の舞台は平成十六年。大上の志を継いだ日岡秀一が、捲土重来を期する沖の前に立ちはだかる。
組織の枷という限界があるヤクザと異なり、沖は怖いもの知らずだし暴力にもブレーキが利かない。それだけにシリーズ中でもヴァイオレンス描写のアナーキーさは屈指だが、そんな沖にとってさえも不気味な存在である大上の、呉寅会とヤクザを手玉に取る老獪さと、堅気の人間に害を及ぼす輩は許さないという筋の通し方が魅力的に描かれている。前半の呉寅会の旭日昇天の勢いに対し、後半の彼らは青春の終わりのうら悲しさを感じさせずにはおかない。大上と沖の強烈さに比べて日岡の存在感がやや物足りなく感じるのはやむを得ないものの、パワフルな小説なのは間違いない。
竹町『スパイ教室01 《花園》のリリィ』(富士見ファンタジア文庫)は、第三十二回ファンタジア大賞受賞作。舞台は、世界大戦でガルガド帝国の侵略を受けて大きな被害を出した小国、ディン共和国。戦後、この国に創設されたスパイ養成学校の落ちこぼれ生徒であるリリィは、他の少女たちと一緒にクラウスという教官から、危険な任務のための特訓を受けることに。ところがクラウスは、スパイとしては天才だが生徒にわかりやすく教える能力は欠如していた......。
自分を倒せという課題を出したクラウスと、さまざまな手段でそれを達成しようとする少女たちの頭脳戦が繰り広げられるが、読んでいるうちに「何かがおかしい」と感じる読者も多いのではないだろうか。通常のライトノベルならば──いや、通常の小説ならば当然書かれるべき「あること」が書かれていないのだ。当然それは結末と関連してくるのだが、真相が明かされた時は「なるほど、そういう狙いだったか」と膝を打った。小説だからこそ可能なトリックを体験していただきたい。
片里鴎『異世界の名探偵2 帰らずの地下迷宮』(講談社レジェンドノベルス)は、本誌の昨年十二月号で紹介した『異世界の名探偵1 首なし姫殺人事件』の続篇。前作の事件の功績で宮廷探偵団副団長補佐なる大仰な肩書と立場を手に入れたヴァン。今回の彼の使命は、多くの冒険者の命を奪った危険なダンジョン、通称「帰らずの地下迷宮」の攻略だ。ヴァンは他の八人の冒険者とともにダンジョンに踏み込んだが、一行を連続殺人が襲う。
今回はダンジョン攻略といういかにも異世界ファンタジーらしいテーマで、前作より冒険小説テイストが濃い。一行の中には前作から引き続き登場している顔ぶれもいるものの、大半はヴァンとは初対面であり、一癖ある面々の誰もが何を考えているのかわからないという剣呑な状況に放り込まれたかたちである。登場人物たちの思惑の複雑な絡み合いが事件の真相を見えにくくさせているし、地下迷宮そのものの秘密も大胆不敵。前作同様に懇切丁寧な「読者への挑戦」も盛り込まれており、鮮やかな謎解きが楽しめる。
たとえ心霊現象など信じないというひとでも、自分の住処で以前に惨たらしい人死にがあったと聞けばいい気分はしない筈だ。各地の事故物件の紹介サイト「大島てる」が注目されたり、"事故物件住みます芸人"松原タニシの『事故物件怪談 恐い間取り』がベストセラーになったりする所以だが、岩城裕明『事故物件7日間監視リポート』(角川ホラー文庫)も、そんな事故物件を舞台にしたホラー小説である。
内容はタイトルがすべてを物語っているが、今どきの小説らしくもない約百七十ページという短い分量に凝縮された恐怖の密度が尋常ではない。妊婦の割腹という忌まわしい事件が起きた部屋を舞台に、一日の出来事を一章で描きつつ、次章への引きで興味をそそりながら、フェイントの繰り返しにより読者を不安と安心の両極のあいだで揺さぶるテクニックが絶妙だ。
(本の雑誌 2020年6月号掲載)
- ●書評担当者● 千街晶之
1970年生まれ。ミステリ評論家。編著書に『幻視者のリアル』『読み出し
たら止まらない! 国内ミステリー マストリード100』『原作と映像の交叉光線』
『21世紀本格ミステリ映像大全』など。- 千街晶之 記事一覧 »