『田舎の紳士服店のモデルの妻』宮下奈都
●今回の書評担当者●福岡金文堂志摩店 伊賀理江子
いつかこの世を離れるときには棺桶に一緒に入れてほしい本がいくつかある。
そのなかでも常に小脇に抱えていたいくらい好きで、この本を読んだ感情をなくしたくないと思い、いままで忘れたことなどない一冊。
いつでも読み返せるように本棚の一番取り出しやすい位置にしまったわたしのバイブルだ。
9年前初めて読み、衝撃を受けた。
物理的に、何か重くて固いもので思い切り頭を殴られたような、心臓を布巾をしぼるようにぎゅうっと掴まれたような、ダメージを受けた。
ほんとうのことが書いてあったから。
だからあんなにも強い衝撃で胸にしっかりと残ったのだ。
主人公 竜胆梨々子(りんどうりりこ)はある晩、夫 達郎から「会社、辞めてもいいかな」と言われる。夫はうつになっていた。達郎本人の希望で、幼稚園に通う潤(じゅん)と1歳の歩人(あると)と家族4人、東京から夫の故郷の田舎に移り住むことになった。
田舎行きにひるみ、夫とすれ違い、子供たちの成長に戸惑う、三十歳から四十歳のひとりの女性の人生が、二年ごとに綴ってある。
この作品には息を飲むような文章が出てくる。
本質をそのまま言語化したような、エネルギーのある言葉たちがいくつも。読んでいるとつい呼吸が乱れがちになってしまう。
たとえば、
『それがそのまましあわせだと思えるほど単純ではないつもりだけど、それがしあわせでないなら何をしあわせと呼べばいいだろう。』(p.24)
24ページめだ。序盤でこれだもの。もう心臓はがっしり掴まれている。
『未来の設計を狂わされて、ほっとしている。なぜなら、未来の設計など、はじめから、なかったのだから。』(p.36)
...「未来の設計」。たしかにあったのだ。
少し前には。もしかすると先週までだったなら。大人には、未来の設計ができない時期、というのがあると思う。
いくつまでに子供がほしい、いくつまでに仕事でこの役職にいたい、いくつまでにはこんな家に住みたい、いくつまでにはこんな生活に......
希望の色をしている場合が多いが、色が無い未来の設計もあるだろう。
子供がいくつのときには、自分の親がいくつのときには、ライフスタイルはこうありたい、など
自分の理想だけではなく、そこには家族やパートナーが深くリアルに関わってくる。
そして、パートナーは、元々は他人なのだ。
幼い頃の思い出も環境も、生活も季節の行事も、なにもかも違う家庭で生きてきた他人と、未来の設計をするのはなんと難しいことか。
もしかしたら、そもそも無理な話なのだ。
それでも。
このひとと一緒に暮らしたい、生きてみようと思った瞬間があったはず。パートナーとの未来を夢見た自分が確かにいたのだ。違う価値観だからこそ新たな発見と喜びがあることを祈らずにはいられない。
この本は、危険だ。
すいっと境界線を越えることすら出来そうな気になる。
ただ間違いなく、読む者のこころを明瞭化し励ましてくれる。
この本は、救いだ。
『私は何者でもなかったし、今でも何者でもない。何者かにならなくちゃいけないなんて、嘘だ。』
- 『時をかけるゆとり』朝井リョウ (2024年8月1日更新)
- 『明日、晴れますように 続七夜物語』川上弘美 (2024年7月4日更新)
- 『あたしの一生 猫のダルシーの物語』ディー・レディー (2024年6月6日更新)
- 福岡金文堂志摩店 伊賀理江子
- 福岡県糸島市在住。2020年福岡金文堂志摩店入社。2022年頃から文芸文庫担当。夫がひとり娘がひとりの3人家族。江國香織が好き。大好き。ミステリやコワいものグロいものも大好物。整体ですべての筋肉が眠っていると言われたことがある。だからかよくつまづく。いろんな意味で。