新人作家をガンガン育てた名物編集者の回顧録
文=東えりか
一昨年の年末だったろうか。「図書」(岩波書店)を読んでいたら山田裕樹という名が目に飛び込んできた。北方謙三事務所の秘書時代に何度も原稿のやり取りをした集英社の北方謙三担当、冒険作家ブームの立役者としてすでに伝説になっているほどの名物編集者が回顧録を書き始めていた。
それがあっという間に書籍化されたのには驚いた。『文芸編集者、作家と闘う』(光文社)なぜ光文社から出したのかという謎は「あとがき」で明かされる。
さすがは山田さん、編集者がかつてを懐かしむような単なる回顧録ではなかった。
この編集者はどんな作家や評論家より本を読んでいた。担当の作家や作品を分析した後、強引ともいえる手法で売れっ子にしていったのだ。それも入社して間もなくの時期から。
時代も味方した。バブルの恩恵もあったかもしれない。でも無茶かもしれないと思いつつ新人作家を育てることに躊躇いがなかったし、公私ともにとことん付き合うことができた。それが作品に結び付いていくのだから、さぞ楽しかっただろう。
北方謙三ボスは山田さんに憎まれ口を叩きながらも愛すべき相棒として絶大な信頼を置いていた(たぶん今でも)。
あのころ、エンターテインメントの作家たちは集まってよく酒を飲んでいた。少し懐かしい。
そんな酒浸りだった作家の一人、樋口明雄が断酒したという。
『のんではいけない』(山と溪谷社)はアル中寸前まで行った作家が一念発起して完全断酒し、現在に至るまでの詳細な記録である。
思い返せばアルコールで身を持ち崩したのを何人も見てきた。毎夜毎夜、銀座だ新宿だと繰り出していた作家や編集者の醜態は凄まじかった。憧れの作家のそんな姿を見て百年の恋も一瞬で冷めた。
大学で上京して出版業界に入った樋口さんが住んだのは阿佐ヶ谷。中央線沿線は演劇や音楽、出版業界の住民が多く、とにかくよく飲む人が多い印象がある。どの店も常連で占められ、私もときどき連れて行ってもらった。入り浸れる店があるのは幸せだ。私の人生の中でそういう店を持てなかったのは、残念だと思う。どんな狼藉があっても、喧嘩や怪我をしても、みんないい思い出だ。
田舎暮らしを選択した樋口さんは、年齢を重ねるごとに健康に不安をもつようになる。そこで断酒を決断し、そこから一度もお酒を口にしていないという。
中毒になるほど飲んでいなかったのだろう。断酒した後は良いこと尽くめ。止めると言って、何度もまたアルコールにおぼれた人を見てきたから、本当に立派だと思う。
お酒ではなく文章に酔うのは気持ちいいものだ。小説家の文体には独自のリズムとテンポがあって、読者の感性がそれとピタリと嵌ると読むことを止められなくなる。
町田康『俺の文章修行』(幻冬舎)は中毒性の高い作家、町田康が創作過程を詳細に明かしていく。
私にとって町田さんは「パンクロッカー・町田町蔵」だった。ほぼ同年代の辻仁成や大槻ケンヂが音楽の傍ら小説を書きだしたとき、作家・町田康が誕生した。『くっすん大黒』(文春文庫)は、最初は読まれることを拒否しているような気がしたのに、文字を追っていくうちに何だか気持ちよくなっていったのを憶えている。
正直、町田康の小説は彼にしか書けない世界観を独特の文体で書き上げているのだから、彼の文章修行の本を読んだからと言って作家になれるはずはない。
だが本書では、この特異な作家がどうやって作られたのか、どんな本を読んできたのか、どんなことに気を付けて小説を書いているのかを惜しげもなく披露している。
そうそう、去年末から『口訳 古事記』をオーディブルで聞き始めた。朗読者との相性が良いのか聞き心地がいい。文章のリズムは音楽家だったことと関係しているのだろうか。
記憶がおぼろなのだが、私が町田康の小説を手に取ったのは、豊﨑由美さんが強烈にオススメしていたからだと思う。『くっすん大黒』でデビューしたのはまだ20世紀だった。
豊﨑由美『どうかしてました』(発行ホーム社/発売集英社)は本の紹介もたっぷりしているが、基本的には自分が生きてきた軌跡を描くエッセイ集だ。どんなところに生まれ、両親の話、好きだったもの、職業遍歴など辛口書評家のプライバシーが赤裸々に披露されている。
私が豊﨑さんの名前を知ったのは、マガジンハウスの雑誌だったと思う。女性ライターが大挙して現れ、それぞれ独特の立ち位置を築こうとしていた。
私がのほほんと作家の秘書として安穏に過ごしていた頃、強烈な競争社会にいたことになる。
後年、同じ書評家という仕事に携わったが、豊﨑さんの紹介するジャンルの本と、私のとではほとんどカブることはない。しかし私は、右目の端で常に豊崎さんが何の本を面白いと言っているのか気になっている。
歯に衣着せぬ豊﨑さんの書評にファンは多い。長年開かれている書評講座から若い書評家を輩出しているのも頭が下がる。
物故した小説家は忘れ去られるのみということが多いが漫画家は違う。手塚治虫をはじめとした「トキワ荘」作家の作品は今でも子どもたちを喜ばせる。
『藤子・F・不二雄がいた風景』(小学館)は『ドラえもん』に関連した様々な仕事を行う部署が総力を挙げて資料や関係者のインタビューを集めたいわゆる「辞典」だ。私の世代は、ドラえもんの誕生から知っていることになる。凄いキャラクターを作ったものだとため息が出る。
(本の雑誌 2025年3月号)
- ●書評担当者● 東えりか
1958年、千葉県生まれ。 信州大学農学部卒。1985年より北方謙三氏の秘書を務め 2008年に書評家として独立。連載は「週刊新潮」「日本経済新聞」「婦人公論」など。小説をはじめ、 学術書から時事もの、サブカルチャー、タレント本まで何でも読む。現在「エンター テインメント・ノンフィクション(エンタメ・ノンフ)」の面白さを布教中。 新刊ノンフィクション紹介サイト「HONZ」副代表(2024年7月15日クローズ)。
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