異国情緒の迷宮と謎をさまよう!
文=小山正
前号で『エージェント17』(ハヤカワ文庫NV)という謀略アクション小説を評したら、今度はドイツの作家マルク・ラーベの長篇『17の鍵』(酒寄進一訳/創元推理文庫)が出た。また17! 偶然? それとも陰謀?
ベルリン大聖堂で牧師の死体が見つかる。十字架の磔のように両腕を広げ、天井から吊されていた。首にぶら下がるのは、数字の17を刻む銀色の鍵。それを見て刑事トム・バビロンは衝撃を受ける。十九年前、彼の妹が同じ17の鍵を持ったまま行方不明になっていたのだ!
このトムの造型がおもしろい。はみ出し刑事というだけではなく、彼にしか見えない妹が幻で現れ、二人が頻繁に語り合うのだ。脳内会話の〈意識の流れ〉刑事である。そんな彼が女性臨床心理士の相棒とともに、十九年前の事件と、現在の事件──精神病院で起きている怪事件と大聖堂の犯罪──の真相に迫る。
事件背後に見え隠れする、ベルリンの壁崩壊後も残る旧東ドイツの病巣。そして、今の難民政策を含む現代ドイツ社会の闇。明かされる17の意味も含めて、知られざるヨーロッパ文化・社会に触れられるのも、非英語圏ミステリを読む醍醐味だろう。物語は解かれぬ謎を残して、映画界が舞台の続編『19号室』に続く。次回が待ち遠しいぞ。
非英語圏の長篇をもうひとつ。ベルギー出身のミステリ作家ジョルジュ・シムノンの『月射病』(大林薫訳/東宣出版)は、シムノン研究の第一人者、瀬名秀明監修の〈ロマン・デュール選集〉の一冊目だ。ロマン・デュールles romans durs とは、フランス語で「硬い小説」を意味するシムノンの造語で、メグレ警視が登場しない普通小説群のこと。犯罪に関わる人々の精神を、悲劇的に描くのが特長だ。
二十三歳のジョゼフは仕事を紹介され、アフリカ中部のガボン共和国に来る。異国の空気に悶々と日々を過ごす中、彼はホテルのオーナーの妻アデルに魅せられ、関係を持つ。そんなある日ホテルの黒人従業員が殺され、それを機に彼の迷走が始まった。
〈運命の女〉に翻弄され、強烈な暑さと感染症の高熱にうなされ、ジョゼフの肉体と精神は生き地獄と化す。そして湧き上がる自分への怒りや黒人たちへの殺意。かくして彼の心は、黒人殺人事件をめぐる終盤の法廷シーンで極限状態に至る。さすがシムノン、圧巻の心理ドラマである。このような豊穣な傑作を、日本語でじっくりと読めるのはうれしい。
これまた舞台が一八二〇年と古いが、そこに新酒を注ぐのが、クローディア・グレイの新作長編『『高慢と偏見』殺人事件』(不二淑子訳/ハヤカワ・ミステリ)である。英国の文豪ジェイン・オースティンの古典文学『高慢と偏見』を含む彼女の全長編の結婚カップルと関係者が、こぞって登場する本格ミステリだ。
『高慢と偏見』の二十年後。サリー州ドンウェルの古い大邸宅に住むジョージ&エマ・ナイトリー夫妻は、『高慢と偏見』のダーシー夫妻一家、『マンスフィールド・パーク』のバートラム夫妻、『分別と多感』のブランドン夫妻、『説得』のウェントワース夫妻、『ノーサンガー・アビー』のティルニー夫妻の娘ジュリエットを招いて、ハウスパーティーを企画する。しかしそこに、ダーシーが嫌う詐欺師もどきの中年ジョージ・ウィッカムが現れ、不穏な空気が漂う。おりしも大嵐が襲い邸宅は孤立。その夜、ウィッカムが死体で発見され、ダーシー夫妻の二十歳の息子ジョナサンと、ティルニー夫妻の十七歳の娘ジュリエットが、真犯人を突き止めるべく捜査を始める。
『高慢と偏見』の続きを描くパスティーシュや戯作は数多いが、オールスターキャストは新機軸。彼らの作品枠を超えたクロストークは夢のようだし、何かしらの事情で全員に殺害動機があるというフーダニット趣向も楽しい。
しかも、そうした華やかさは見かけだけではない。殺人で浮かび上がる夫婦の秘密と疑惑。蠢く疑心暗鬼。二転三転する状況の中で、夫婦の危機をいかに乗り越えるかが、オースティンが憑依したような筆致で描かれてゆく。もちろん当時の最大の関心事は「結婚」という価値観なので、若いジュリエットとジョナサンの恋愛模様も鑑賞ポイント。だが彼らは、結婚以外の新しい生き方を求めており、二人の関係は一筋縄ではいかない。
でも、『高慢と偏見』が未読だと楽しめない? いや、単独作としてもアガサ・クリスティー風の楽しい殺人ミステリに仕上がっており、問題は無い。でも、セット読みがベストかなあ。もっと言えば、これを機に他のオースティン作品も併せて読めば、読書の歓びは無限大だ。
ジェイン・オースティンつながりで、ドナルド・E・ウェストレイクの長篇『うしろにご用心!』(木村二郎訳/新潮文庫)についても記しておこう。今さら説明不要の爆笑コミック・クライム〈泥棒ドートマンダー〉シリーズの待望の翻訳である。今回も奇想天外かつ笑いにあふれ(ニヤニヤ、くすくす、苦笑、大爆笑の連打!)、ラストの襲撃シーンまで至福の読書が楽しめる。で、どこがオースティンつながりかというと、作中でバーバラ・ピムのペーパーバックを熱心に読む老婦人が一瞬出てくるのだ。ピムは知る人ぞ知る現代英国文学界の異才で、〈現代のジェイン・オースティン〉と称される作家。ウェストレイクの書きぶりだと、彼自身もピムの大ファンらしい。皆さん、ウェストレイクも愛する(と思われる)バーバラ・ピムの名をご記憶あれ!
(本の雑誌 2025年4月号)
- ●書評担当者● 小山正
1963年、東京都生まれ。ミステリ・映画・音楽に関するエッセイ・コラムを執筆。
著書に『ミステリ映画の大海の中で』 (アルファベータブックス)、編著に『バカミスの世界』(美術出版社)、『越境する本格ミステリ』(扶桑社)など。- 小山正 記事一覧 »