国境なき医師団の6週間の報告記録

文=東えりか

  • ガザ、戦下の人道医療援助
  • 『ガザ、戦下の人道医療援助』
    萩原 健
    ホーム社
    2,200円(税込)
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  • 「国境なき医師団」をそれでも見に行く 戦争とバングラデシュ編
  • 『「国境なき医師団」をそれでも見に行く 戦争とバングラデシュ編』
    いとう せいこう
    講談社
    1,980円(税込)
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  • アーベド・サラーマの人生のある一日 ――パレスチナの物語 (単行本)
  • 『アーベド・サラーマの人生のある一日 ――パレスチナの物語 (単行本)』
    ネイサン・スロール,宇丹 貴代実
    筑摩書房
    2,640円(税込)
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  • 世界は宗教で読み解ける (SB新書 692)
  • 『世界は宗教で読み解ける (SB新書 692)』
    出口治明
    SBクリエイティブ
    1,045円(税込)
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 2025年5月19日現在、イスラエルのガザ地区ではイスラエル軍の大規模な軍事作戦が続いている。18日に始まった北部と南部への同時地上侵攻はハマスの武装勢力やインフラを標的として空爆と砲撃が繰り返されている。この数日で500人以上が死亡した。北部の病院は閉鎖を余儀なくされ、医療体制が崩壊。病院内に取り残された人たちの救助は困難だという。

 カタールのドーハで間接的な停戦交渉が再開されたが双方の意見は大きく食い違い、合意には至っていない。

 ここ1年ほど、朝のNHKニュースを見たあとにChatGPTにウクライナとロシアの戦争と、イスラエルとハマスの戦闘状態を訊くのが日課になった。

 知ることで何ができるというわけではない。だが、今地球上でどんな戦争が起こっているのかアウトラインだけでも知りたい。AIによって最新の情報を取り、その後に新聞やネットで確認を取る。オンタイムで入ってくる映像は一応疑う。今や世界で何が起こっているのかを「知らない」ことも罪ではないかと思うようになった。

 萩原健『ガザ、戦下の人道医療援助』(発行ホーム社/発売集英社)は「国境なき医師団(以下MSF)」の緊急対応コーディネーターである著者が2024年8月~9月にかけて経験した現場の報告記録である。

 MSFはその名の通り医療援助団体である。と同時に人道援助団体でもある。医師とジャーナリストによって設立されたという経緯がそれを物語っている。

 著者は最近6年間はさまざまな紛争地の現場責任者を経験しているが医療従事者ではない。現場の政治や社会、文化、風習などに広く目を配る役割、支援が必要な人との架け橋だ。

 イスラエルの中にある「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」というパレスチナ自治区で起こっている紛争についてここで詳しく書く紙幅はないが、本書冒頭に掲げられている地図、特にイスラエル側によってブロック分けされたガザ地区の地図に注目してほしい。何が起こっているのかを知るために非常に重要なのだ。"ガザ地域の住民の安全確保のための措置"という名目のもと、たびたび繰り返される"退避要求""強制移動""集団的懲罰"に使われている緻密な地図に驚かされる。

 番号を振られた地区を攻撃するからどこかに逃げろという指示は、夜中でも突然発せられる。そこに住む人は安全を求めて逃げ惑う。誤爆も多い。毎日生きた気がしないだろう。

 ガザにはMSFの現場職員が10人ずつ、3チームが派遣されており、精神的負担を考慮して6週間ごとに交代する。

 WHOなどほかの支援団体との交流も密だが、MSFは何より「即座にニーズに対応する」ことを使命としている。

 著者のいた6週間と次の6週間では事情がまったく違う。今も爆撃は続く。それでも何が起こったのか、私たちが知ることができるのは当事者の報告しかない。息をつめて読み終える。

 いとうせいこうはこれまで8年間をかけて各地の「国境なき医師団」を見てきた。『「国境なき医師団」をそれでも見に行く戦争とバングラデシュ編』(講談社)はその3冊目になる。前作で訪れたガザに関する思いは序章に詳しい。この部分はぜひ読んでほしい。

 今回訪れたのはミャンマーからバングラデシュに逃れた少数民族「ロヒンギャ」だ。その数、100万人。彼らはミャンマーでも国籍を与えられていない被差別民族である。

 世間の目はウクライナに、パレスチナに向いているが世界最大の難民キャンプはこのロヒンギャの人たちで、かのアウン・サン・スーチーでさえ無視している事実を本書で初めて知る。

 文章を書く者が現場を見に行くこと、これは俯瞰した立場で一歩引いた視線を這わせ、その場を知らない者へ著者の主観とともに現実を報せるという大事な役目を担っている。その気概が伝わってくる。

 ロヒンギャって何?と読み進むうち、その現場近くに日本人高校生を含む特殊詐欺のグループのベースがあったことが明らかになった。遠い世界だと思っていたことは実は地続きの話だったのだ。世界はもう広くない。

 今年はじめからなぜか「読まねばならない」と信じて持ち歩いていた本がある。

 2024年ピューリッツァー賞受賞作、ネイサン・スロール『アーベド・サラーマの人生のある一日 パレスチナの物語』(宇丹貴代実訳/筑摩書房、1月刊)である。

 2012年、イスラエルのヨルダン川西岸地区でスクールバスがセミトレーラーに衝突される死亡事故が起こった。

 本書はエルサレム在住のアメリカ人ジャーナリストが、死亡した児童のひとり、パレスチナ人のミラード・サラーマから始まる、両親、親族、事故の関係者などの所属する氏族や地元の歴史を調べ、パレスチナ人内のヒエラルキーや男女差別など取り巻く環境変化を執拗に調べ上げた作品だ。あまりに複雑すぎて登場人物一覧を傍らに置いて読んでも頭に入らないのだが、興味深く面白い。過去にこの地区の紛争の本は何冊も読んだけれど、こんなにも臨場感を持って、知らない国の人々の人生を知ることはなかった。

 先の2冊を読了後、本書を一気に読み終えた。この少年の死の背後にははてしない人類の歴史が横たわっている。

 紛争の大きな原因のひとつが宗教なのは明らかだが深く理解するのは難しくて手掛かりが欲しい。出口治明『世界は宗教で読み解ける』(SB新書九五〇円)はそれにうってつけの本である。疑問に思うことをピンポイントで解説してくれる。明日のニュースを理解するためにそばに置いておきたい。

(本の雑誌 2025年7月号)

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●書評担当者● 東えりか

1958年、千葉県生まれ。 信州大学農学部卒。1985年より北方謙三氏の秘書を務め 2008年に書評家として独立。連載は「週刊新潮」「日本経済新聞」「婦人公論」など。小説をはじめ、 学術書から時事もの、サブカルチャー、タレント本まで何でも読む。現在「エンター テインメント・ノンフィクション(エンタメ・ノンフ)」の面白さを布教中。 新刊ノンフィクション紹介サイト「HONZ」副代表(2024年7月15日クローズ)。

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