佐藤正午『熟柿』に心を鷲掴まれる!
文=久田かおり
2025年がまだ半分も過ぎていないこの時点で「年間ベスト」などと言っちゃっていいものかどうか悩むけど、とりあえず暫定ベストと宣言したい佐藤正午『熟柿』(KADOKAWA)が心を鷲掴み。佐藤正午は2015年に『鳩の撃退法』で山田風太郎賞を、2017年には『月の満ち欠け』で直木賞を受賞しているが今回も何らかの賞に絡んでくるのではないかと期待が高まる。2016年から年に一度(!)の連載を続けようやく完成した本作は、1人の女性の17年間を描いたものだ。ひき逃げ事故を起こしたかおりが獄中出産。罪を償って出所した彼女を待っていたのは夫からの離婚の申し出。「犯罪者の母を持つ子の不幸より、母のいない子の不幸」を選び、いつか息子に会える日を心の支えに、さまざまな土地でさまざまな仕事をしながら1人で生きていく、その人生。子どもへの会いたさが募って連れ去り未遂事件を起こしたり同居人に騙されたり、かおりの人生は悲壮感を増していく。佐藤正午はその悲壮感を無駄に激しくあおりはしない。罪を犯し法的には罪を償った人間の、過去を背負った社会的人生を一歩引いた目で二歩引いた描写で端正な文章で追い続ける。だからこそ、かおりや彼女の息子をずっとさりげなく見守ってくれる人たちの存在が読む者の心に深く深くしみわたる。かおりと息子がどうなったのかはここでは書かないけれど、息子の幼馴染みである久住呂母娘にいつかどこかで出会えたら、私は二人を思いっきり抱きしめて「ありがとう」と言うだろう。同じ名を持つ者として、かおりの代わりにありがとう、と心から言いたいのだ。
"タワマン文学"というジャンルがある。渡辺祐真によるとそれは「時に成功者の証として持ちあげられ、時に資本主義の権化として槍玉に挙げられるタワーマンションを舞台に、現代日本の格差や嫉妬、生きづらさを描く作品群」(毎日新聞より)ということらしい。そのタワマン文学の新たなる代表作になりそうな一冊が森晶麿『あの日、タワマンで君と』(小学館)だ。タワマン文学であり恋愛小説であり、さらにミステリでもある。食料の配達員でその日暮らしをしている創一は、配達先のタワマン最上階に住む多和田のたわむれに翻弄され、人生が大きくゆがんでいく。金持ちの気まぐれな奇妙な提案、高校時代に思いを寄せていた静香との再会、そして驚きの展開からの衝撃。見えて居た景色が一瞬で変わる。なるほど、これが『黒猫の遊歩あるいは美学講義』で第1回アガサ・クリスティー賞を受賞した森晶麿の手腕か、と読後思わずお手上げポーズ。
note創作大賞2024朝日新聞出版賞を受賞しデビューした青山ヱリの『あなたの四月を知らないから』(朝日新聞出版)への共感度の高さに注目! 女性向け風俗の利用者たちとセラピスト。嘘と非日常でつながるそれぞれの、相手には見えない本当の時間。二時間限定の関係、それでも施術の間で確かに心と身体は満たされていく。かりそめの恋で労わられ、ほぐされ新しいドアを開けて去っていく女性たち。彼女たちを見送ることで、セラピストもまた自分自身の問題ときちんと向き合っていく。誰にだって自分を見失い、どうにも前に進めないときがある。そんなときに自分の輪郭を優しくなぞってくれる手があれば、また自分の足で歩きだせる。二つの物語に明日の自分の笑顔が映っていた。
瀬尾まいこは平行や直角のない角形のような少しいびつな家族を描くのが抜群に上手い。『ありか』(水鈴社)は夫の浮気で離婚した美空と娘の生活に飛び込んできてくれた元夫の弟との生活が描かれる。法律上は赤の他人である元義理の弟という存在。彼の差し出す無償の手。お礼はいらない、遠慮もいらない、ただ自分が親切にしたいからするだけ、という潔い親切。いつか裏切られたり捨てられたりするんだろうな、なんてすさんだ心で読んでいる自分が恥ずかしくなるほどの潔い親切。心の底から優しさを楽しめる、瀬尾小説の魅力が最大限に光る一冊。
限りなく切なく美しい大人の恋愛小説『二人の嘘』(幻冬舎文庫)が記憶に新しい一雫ライオンの新作『流氷の果て』(講談社)はエモさあふれるミステリだ。1985年北海道で起こった豪華バス転落事故、1999年新宿南口で発見された身元不明の首吊り死体。全く無関係に見える二つの事件をつなぐ一本の線を偶然居合わせた定年間近の刑事が追う。バス事故から生還した少年と少女、14年後の二人の接点と隠された真実。罪をあばくことは、義なのか、それとも救いなのか。逃げて!生き延びて!と祈りながら本を閉じる。
飛行機に乗る前につい空港や搭乗券とフライト情報の写真を撮ってSNSにUPしてしまう。「エアポートおじさん」と呼ばれるその行動は飛行機に乗る、あるいは空港にいるという特別感によるものだろう。そう、空港というのは多くの人にとって非日常の入り口であり出口でもある。そんな空港を舞台にした飛鳥井千砂の『This is the Airport』(光文社)は少しずつ登場人物が重なり、少しずつ悲しみと優しさが繋がっていく連作短編集。目の前にある苦しみから目をそらさずに明日も今日の続きを生きていく「私とあなた」の物語たち。終わりのない毎日の繰り返しから、小さな一歩を踏み出す空間に空港ほどふさわしい場所はないのかもしれない。小さな幸せを乗せて飛鳥井千砂の手が、やさしく差し出される。大々的に宣伝されたりドカンと積み上げられたりはしないかもしれない、こういう一冊に出会える本屋でありたいとしみじみ思うのだ。
(本の雑誌 2025年6月号)
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- ●書評担当者● 久田かおり
名古屋のふちっこ書店で働く時間的書店員。『迷う門には福来る』(本の雑誌社)上梓時にいただいたたくさんの応援コメントが一生の宝物。本だけ読んで生きていたい人種。最後の晩餐はマシュマロ希望。地図を見るのは好きだけど読むことはできないので「着いたところが目的地」がモットー。生きるのは最高だっ!ハッハハーン。
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