濃い感情が渦巻く『いきぢごく』から目が離せない!

文=北上次郎

  • 傑作はまだ
  • 『傑作はまだ』
    瀬尾まいこ
    エムオン・エンタテインメント
    1,540円(税込)
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  • 永久のゼッケン 多摩川ブルーにほほえみを
  • 『永久のゼッケン 多摩川ブルーにほほえみを』
    倉阪 鬼一郎
    出版芸術社
    1,540円(税込)
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 瓶覗、という名の色があるんだそうだ。かめのぞき。淡い藍色、らしい。初めて知った。そのかんざしをくれたのは姉の夫、幹久だ。彼は言う。「瓶の底に溜まった水の揺らぎ。空の色を映しとったような、そんなはかない色。空を恋う色」。だから、鞠子にとっては不義の色だ。

 友人と旅行会社を経営する四十二歳の鞠子は、ロンドンにいる姉から「こっちでの生活を畳もうかと思ってるの」と電話がきたとき、

「途端に髪の毛の中を、立てた指ですくい上げるように撫でられた感触が蘇ってきた。瞬間鳥肌が立ち、すっと気が遠くなるような感覚を覚えた」

 と早い段階からその不義が暗示されている。さらに、母親が亡くなったのは鞠子が九歳のときで、

「交通事故だった。誰かの車に乗せてもらっていて、対向車と衝突したのだと聞いた」

 と冒頭近くに書かれている。誰かに乗せてもらったとは何か。ここにも不穏な空気がある。つまり、十一歳も年下の部下と付き合っているのは表面的なことであり、真実はもっと奥に隠されているとの予感が、ずっと物語の底を流れているのだ。それが徐々に、ゆっくりと浮上してくる。こうなるともう目が離せない。宇佐美まこと『いきぢごく』(角川春樹事務所)だ。

 姉の夫との不義の恋、という手垢のついた話を、鮮やかな造形力(四国の古民家を管理している親子がいい)と、巧みな構成(戦前の女遍路の日記を挿入することで鞠子の苦悩に奥行きを与えている)で、リアルなものに作り変えているのは見事。

 ラストの展開にひっかかる読者がいるかもしれないが、なあに、気にすることはない。いまはむしろこの作家の可能性を信じたい。おそらくこの作家はここ数年がいちばん面白い。特に、遠田潤子の愛読者に本書を強くすすめたい。「濃い感情の物語」がここにある。

 瀬尾まいこ『傑作はまだ』(発行ソニー・ミュージックエンタテインメント/発売エムオン・エンタテインメント)もいい。こちらは、生まれてから一度も会ったことのない二五歳の息子が訪ねてくるところから始まる物語だ。引きこもりの作家である父親との同居生活がスタートするのだが、血が繋がっているというだけで性格がまったく異なる二人の同居はうまくいくのか、という話である。相変わらず、瀬尾まいこはうまい。こういう話をずっと読んでいたい──そんな気にさせてくれる長編だ。

 ところで、福田和代『梟の一族』(集英社)の冒頭近くに、ウルトラマラソンの話が出てくる。

「一般的なマラソンは四二・一九五キロと距離が定められているが、それ以上の長さを走る。国内でも、日光や飛騨高山、四万十川に北海道のサロマ湖、沖縄など、さまざまな場所で大会が開催されている。青森から下関まで千五百キロ以上を走るレースもあるくらいだ」

 この直前に読んだ倉阪鬼一郎『永久のゼッケン』(出版芸術社)は一〇〇キロを走る多摩川ウルトラマラソンを描くもので(五〇キロの部もある)、ここで私は初めて「ウルトラマラソン」を知ったのだが、立て続けに出てくると、この「ウルトラマラソン」が気になってくる。『永久のゼッケン』には、運営側の苦労も描かれているので興味深い。走るほうも大変だろうけど、主催するほうも大変なのだ。しかし四二キロでも気が遠くなるというのに、一〇〇キロ、一五〇〇キロとは信じられない。すごい鉄人たちがいるものだ。いや、これは余談。

『梟の一族』は、眠らない一族の話で、その里が何者かに襲われるところから始まるが、後半にすごい歴史秘話が飛び出してきて嬉しくなった。その線を進めた話を俄然読みたくなったが、そちらを選ぶと半村良の伝奇小説になってしまうので控えたのかも。

 興味深く読んだのが、上橋菜穂子『水底の橋』(KADOKAWA)。あの傑作『鹿の王』の続篇である。

 前作は、奴隷の身から逃げるヴァンと、黒狼熱の謎を解きたい若き医術師ホッサルの壮大な冒険を描いて読ませたが、なによりも複雑な話(国の興亡が背景にあるのでそれだけでも複雑なのだ)を巧みにまとめる手腕が見事であった。それに比べて今回は、東乎瑠帝国の覇権争いに話を絞っているので、前作よりはシンプルだ。これでシンプルなのかよと思われるかもしれないが、あえて背景を掘り下げずに話を進めるという作者の計算だと思う。しかしこんなに遠回りしていたら、このシリーズ、完結するのに軽く一〇年はかかってしまうだろう。私が生きている間にはどうやら完結しそうにないことが残念だ。

 今月のラストは、「著者初の壮大な歴史ファンタジー」と惹句のついた諸田玲子『尼子姫十勇士』(毎日新聞出版)。著者が初めて書いた伝奇小説で、まあ、ファンタジーと言ってもいいけれど、ここは日本の時代小説の一大潮流でもある伝奇小説の正統的な嫡子として読みたい。最近、この手のものが少ないだけに嬉しい。

 滅亡した尼子氏の残党が出雲国を奪還するために毛利氏に戦いを挑む物語である。尼子勝久を総大将とするが、実質的な大将は山中鹿介。勇猛さと清廉さで知られる美丈夫だ。この男を中心に物語は展開するが、八咫烏や鹿の化身(こいつが重要な役まわりを演じるのだ)が現れたり、肉体を乗っ取って他人に化けたりもするから、もう訳がわからない。これがいいのだ。

 個性豊かな脇役たちもいいが、キモは京都の遊女黄揚羽。裏切りが渦巻く戦国の暗い世を明るく照らしだす一服の清涼剤になっている。

(本の雑誌 2019年6月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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