松尾清貴の歴史小説『ちえもん』がすごい!

文=北上次郎

 すごいすごい。松尾清貴『ちえもん』(小学館)だ。冒頭近くの、巨大な石を持ち上げようとするだけのシーンがなぜこれほど興奮を呼ぶのか。それはたぶん、文章に力が漲っているからだ。躍動感に似たその力が、読み手にどんどん伝わってくるからだ。

 この物語の主役は、廻船問屋の二男坊、喜右衛門だ。へっぴり腰で石にしがみつく「青瓢箪」として登場するが、もっとたくさん食べて太らなければならん、と言われると「俺は太らんでええ。智慧で爺様を超えちゃるんじゃ」と言い返すから、ただの青瓢箪ではない。生まれたときに縛りつけられている現状を変えるのは智慧だという信念の持ち主なのである。

 舞台は長崎、時は一七七〇年。この地を舞台にした飯嶋和一『黄金旅風』のちょうど一〇〇年後である。なぜ飯嶋和一の名を出したかというと、この長編、作者名を伏せて読めば、飯嶋和一の作品と思う読者が少なくないのではないか。

 巧みな人物造形も、硬質な文体も、そして重要な登場人物があっけなく表舞台から姿を消していく構成も、さらには途中で七〇年前の出来事を挿入する「寄り道」も、すべて飯嶋和一だ。主人公を取り巻く状況を、政治と経済から見る姿勢も、酷似している。今後は、飯嶋和一から離れたオリジナリティをどうやってつくりあげていくかが問われるが、それは後日の話だ。いまはただ、この長編を味わいたい。海洋描写も素晴らしいし、素敵なラスト一行まで、一気読みの傑作だ。この松尾清貴、デビューが二〇〇四年で、これまでたくさんの著作がある。歴史小説はこれが初めてのようだが、突如こういう傑作を書くから油断できない。

 今月の二冊めは、綾崎隼『盤上に君はもういない』(KADOKAWA)。こちらは天才少女飛鳥が「史上初の女性棋士」になることが出来るのか、という将棋小説だ。

 その栄誉を競う相手が、千桜夕妃。そこに天才少年・竹森稜太が絡んできて、快調な青春小説になっている。将棋界には「相手にとって一生を左右するような重要な対局にこそ全力を尽くす」という「米長哲学」があるようなのだが、この哲学が物語の随所でホントに頻出するからスリリングだ。

 ラストの展開には留保を付けるけれど、将来が楽しみな作家と言える。そうか、書くのを忘れていた。竹森稜太のキャラがいい!

 次は、寺地はるな『彼女が天使でなくなる日』(角川春樹事務所)。三月『希望のゆくえ』、五月『水を縫う』、七月『やわらかい砂のうえ』、九月刊の本書と、二〇二〇年は四冊目になるが、これが今年のベスト。

 たとえば、ハイハイで突進した達樹が千尋の足の甲をぺちぺちと叩くシーンがある。その瞬間、部屋の空気が一変する。達樹を抱き上げて、千尋が笑ったからだ。それが、いきおいよくあがる水しぶきのような、はじけるような笑顔だったからだ。

 そして信じられないことに、いつもは人見知りで母親以外の人間に抱かれると突然泣きだす達樹が、きゃっきゃっと甲高い笑い声をあげたのである。育児に悩んで島を訪れた理津子が呆然とする場面である。

 千尋が子供好きなのではなく、子供に好かれるだけ、との設定がいい。このヒロインがどういう女性なのか、民宿兼託児所をなぜ千尋が営むことになったのか、その事情はゆっくり語られていく。

 九州北部にある人口三〇〇人の島を舞台にした長編だが、個性豊かな登場人物を自在にあやつって、胸に残る物語を紡ぎだす寺地はるなの筆致の冴えを、存分に味わっていただきたい。

 小野寺史宜『タクジョ!』(実業之日本社)も出ているので、これにも短いコメントをつけておく。タイトルからわかるように、女性タクシードライバー夏子を描く長編で、ホントにうまい。小野寺史宜の小説をずっと読んでいたい──そんな気もしてくる。

 作中に、横尾成吾の小説がちらっと出てくるけど、これは小野寺史宜の愛読者へのサービスだ。この作者は、他の作品に出てきたものをこうしてさりげなく登場させるのである。おお、私が気がつかなかっただけで、他にもあるのか。

 ラストは今月の問題作、遠田潤子『雨の中の涙のように』(光文社)。この長いタイトルも初めてなら(映画「ブレードランナー」のクライマックスで、レプリカントのロイが言う有名な台詞。いや、私は知らなかったんですが)、短編集というのも遠田潤子には初めてだ。堀尾葉介という俳優が随所に登場するので(子供時代からアイドル時代、そして役者になるまでの葉介があちこちに登場する)、この男を中心にした連作集との趣はあるけれど、それもまた初めてだ。

 その一編一編が実にうまく、たっぷりと読ませることは最初に書いておく。問題は、心温まる話が多いことだ。なんだか遠田潤子らしくない。

 たとえば「ひょうたん池のレッド・オクトーバー」という一編がある。三重の山奥で、ヘラブナ専門の釣り堀を継いだ男が、白い傘をさした人妻と胸が痛くなるような恋に落ちる話だ。ここには小学生の葉介が出てくる。つまり、この人妻は葉介の母だ。学校でいじめられている葉介が釣り堀に遊びに来るようになり、母親がそのお礼にきて男と知り合い、激しい恋が始まっていく。改めて書くまでもないが、これは「心温まる話」ではない。しかしこの一編が強い印象を残すところにこの連作集の枠組みがある。

 この作品の向こうに作者が何を見ているのか、とても気になる。次にどんな作品を書くのか、とても気になる。

(本の雑誌 2020年11月号掲載)

« 前のページ | 次のページ »

●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

北上次郎 記事一覧 »