『羊は安らかに草を食み』にむくむく元気がわいてくる!

文=北上次郎

  • 花は散っても (単行本)
  • 『花は散っても (単行本)』
    坂井 希久子
    中央公論新社
    1,815円(税込)
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  • アラン・オーストンの標本ラベル
  • 『アラン・オーストンの標本ラベル』
    川田 伸一郎
    ブックマン社
    2,420円(税込)
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 宇佐美まこと『羊は安らかに草を食み』(祥伝社)は、静かに幕を開ける。益恵八六歳の認知症の症状が少しずつ進行しているので、脚が丈夫なうちに、俳句仲間のアイ八〇歳、富士子七七歳が、益恵を連れて彼女がかつて暮らした町をまわることになるのだ。これまでも女三人旅を何回もしてきている。というわけで、滋賀県大津市、愛媛県松山市、そして長崎県の國先島を訪問することになる。これは、そういう老女三人旅を描くロードノベルだ。

 宇佐美まことの小説としては静かな幕開けといっていい。その三つの町を訪ねることで、若き日の益恵の暮らしが少しずつ立ち上がってくる──そういう小説だろうと思って読み進む。いいじゃないか、そういう話。ところが予想外の激しい話が始まっていく。時間線を遡る旅は、益恵のもっと幼いころまで遡るのだ。満州で終戦を迎えたときは十歳。たった一人で混乱の大陸を生きていく様子が激しく描かれていく。特に、泥棒市や人買い市場が立つハルピンで逞しく生き抜く十一歳の日々が鮮やかだ。殺人に強奪、凌辱に裏切りなどが横行する戦後の凄まじい動乱期を、この少女は知恵と工夫と勇気で乗り切っていくのである。なんだかむくむくと元気が出てくる。

 益恵の句集「アカシア」から彼女の句を引いておく。

凍て土ゆくわれに友あり白き月生きて乗る船は祖国へ揚雲雀

 句といえば、柳広司『アンブレイカブル』(KADOKAWA)も強い印象を残している。こちらは、小林多喜二、三木清など、戦前、国家と時代に抗い続けた男たちを描く連作集だ。その中に鶴彬がいる。治安維持法違反の嫌疑で逮捕され、留置場で赤痢に罹患して二九歳の若さで亡くなった川柳作家である。その句を引く。

凶作を救へぬ仏を売り残してゐる
万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
ざん壕で読む妹を売る手紙
手と足をもいだ丸太にしてかへし

 私が好きなのは、彼が一六歳のときにつくった次の句だ。

暴風と海との恋を見ましたか

 反戦句の底に、日本海を見て育った少年の心が息づいていたような気がするのである。大きくて柔らかい男として、作者がこの鶴彬を描いているということだ。強烈な印象を残しているのは、そのためでもある。

 坂井希久子『花は散っても』(中央公論新社)もここに並べておこう。これは、アンティーク着物のショップを経営している美佐が、実家の蔵で祖母の日記を発見するところから始まる物語だ。その日記に描かれていたのは、「少女の友」連載の「乙女の港」(川端康成/中原淳一)に夢中になる少女たちの日々である。それは同時に、カタカナが敵性語とされて、コロッケが「油揚げ肉饅頭」となり、東京に初の空襲があり(ドーリットル空襲)、すなわち日本が中国との戦争に深入りしていく日々でもある。高等女学校に通う彼女たちにも戦争の影が覆ってくるのだ。赤々と燃える東の空を眺めながら、登場人物の一人が次のように言うシーンに留意。

「男たちがはじめた戦争でした。女たちは我が子をいたずらに死なせ、そしてまた、幼子もろとも焼かれようとしておりました」

 ここに、現代を生きる美佐が、子を生めないからといって離縁を迫られる挿話を重ねれば、いつの時代でも女性が虐げられているという一点が見えてくる。この長編にはろくでもない男しか登場せず、美佐と仲がいい男性は骨董屋の関くんだけというのも、ひとつの道筋を示しているようだ。

 全然関係のない話だが、谷崎潤一郎が「細雪」前編の私家版を、戦時中に二〇〇部作っていたとは知らなかった。

 今月の最後はノンフィクションで締めくくる。本来は、柳澤健『2016年の週刊文春』(光文社)を大きく取り上げるつもりでいたが、他の評者が紹介するということなので、ここでは控えておく。すごい本なのでぜひ読まれたい。出版業界に関心のある方はもちろんだが、組織に生きる人なら猛烈に興味を持たれるに違いないと思う。

 一九九二年と一九九三年の日本シリーズを当事者の証言で再現する長谷川晶一の快著『詰むや、詰まざるや』(インプレス)も興味深く読んだが(こちらもすごかった)、これについては別の機会に書く。

 ここで紹介するのは、川田伸一郎『アラン・オーストンの標本ラベル』(ブックマン社二二〇〇円)だ。日本の森林総合研究所と大英自然史博物館に、それぞれ所蔵されているハイナンモグラの標本ラベルが同じものであることに気づいた著者が、その謎を追うという面白ノンフィクションだが、ここに登場するウォルター・ロスチャイルドについては、二〇一九年に翻訳されたカーク・ウォレス・ジョンソン『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』(矢野真千子訳/化学同人)に詳しい。ようするに世界中の標本を集めた男である。

 本書『アラン・オーストンの標本ラベル』が興味深いのは、さまざまな人や本を紹介していることで、この構成が素晴らしい。『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』(一九九三年・小学館)をまだ読んでないことを思い出したが、いちばん読みたくなったのは、ローレン・アイズリー『ダーウィンと謎のX氏──第三の博物学者の消息』(垂水雄二訳/一九九〇年・工作舎)。おお、これを読みたい!

(本の雑誌 2021年3月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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