プロのスパイに、だまされたい!
文=小山正
スパイ小説が好きだ。ジェームズ・ボンドのようなスーパーヒーロー物も良いが、そもそもスパイは人を欺くプロなのだから、その技を著者が読者に仕掛けて、最後にアッと驚く謀略小説だと、もっと良い。かつてはジョン・ル・カレやブライアン・フリーマントルの諸作がそれだった。近年だとチャールズ・カミングの長編『ケンブリッジ・シックス』(ハヤカワ文庫NV)だろうか。I・S・ベリーの新作スパイ小説『孔雀と雀 アラブに消えゆくスパイ』(奥村章子訳/ハヤカワ文庫NV)も、その系譜。リアルかつ仰天必至のスパイ物だ。
二〇一二年。中東の立憲君主国バーレーンに滞在する定年間近のCIA職員シェーンは、民主化運動〈アラブの春〉の風を受け、国内の反政府運動に巻き込まれる。アル中で怠惰。上司の評価も低い彼だが、長年の経験から陰謀を察し、独自の調査を始める。しかし、事態は錯綜を極め、敵味方の区別もつかない。そんなある日、謎めいた女性アーティストに出会う。
地味な諜報活動と日常が延々と描かれる。が、後半それらが別の意味を帯びてくる。オセロゲームの白と黒が一気に反転するように、意外な真相が浮上するのだ。しかもロマンス要素の書き方が、ル・カレよりも格段に上手い。
ついでだが二月末に出たロバート・リテルの長編『アマチュア』(北村太郎訳/新潮文庫)も知的なスパイ小説だ。一九八三年に訳された『チャーリー・ヘラーの復讐』の復刊で、映画化に併せて改題・復刊された。パズル趣味と文学遊戯に満ちた不朽の名作である。
中東が舞台の作品をもうひとつ。カナダ在住の劇作家ワジディ・ムアワッドの『灼熱の魂』(大林薫訳/新潮文庫)は、映画『デューン 砂の惑星』(二〇二一)の監督で知られるドゥニ・ヴィルヌーヴが、二〇一〇年に映像化した同名映画の原作戯曲。えっ? 小説じゃないの?
純粋ミステリではない戯曲だが、ミステリの手法や話法が巧みに用いられている。一九七〇年代のレバノン内戦をモデルに、戦闘に巻き込まれた亡き母の遺言をめぐり、二卵性の男女の双子が母の足跡を追う。そして彼らは、暴力の連鎖が生んだ衝撃の事実を知る。古い紛争が題材とはいえ、戦禍における人間の邪心はいつの世も変わらない。主人公がラストで直面する真相は、今の世界情勢と不気味にシンクロする。優れたミステリを読んだときと同じインパクトを持つ、現代のギリシャ悲劇ともいうべき傑作だった。
アメリカ在住の日系作家エミコ・ジーンの最新長編『鎖された声』(北綾子訳/ハヤカワ・ミステリ)は、アメリカのワシントン州を舞台に、少女拉致監禁事件を追う女性刑事チェルシーの物語。二年前に消えた少女エリーが森の中で発見される。体は土に汚れ、服には血のシミが付いていた。拉致監禁者から逃がれたらしく、心身ともに疲弊した彼女は多くを語らない。犯人捜しは難航する。
最大の読みどころはチェルシーの造型。なんと日本人なのだ! 警察署長の養子の彼女は、後を継いで刑事になった。射撃の腕は抜群。頭脳も明晰。夫は彼女の仕事を理解し、時には事件の謎を一緒に考えてくれる。しかし、男性中心の警察組織は女性のチェルシーを「欠陥」とみなし、蚊帳の外に置く。また、悩みも多く、不慮の死を遂げた姉への自責の念も消えず、亡き父の家の断捨離も思い通りには進まず──とまあ、イロイロと大変だなぁ。
彼女の本意ではないことは他にもある。地域社会の劣化が激しく、公共施設は撤退。地域産業は縮小。貧困者も増えた。チェルシーの敵は犯罪者だけではなく、自身の弱さ、そして、現代社会の歪みだ。総じて陰影が深く、明るい作品ではないが、今の世を映す鏡のような現代ミステリといっていい。しかも、よくある拉致監禁物とは一線を画し、物語後半は想定外の展開をみせる。迫真のクライマックスが堪能できる。
渋い本が続いたので、次は明るく楽しい本。アメリカの作家ジジ・パンディアンの長篇コージー・ミステリ『読書会は危険?』(鈴木美朋訳/創元推理文庫)は、イリュージョニストのテンペスト・ラージと愉快な仲間たちが、不可能犯罪に挑む〈秘密の階段建築社〉の事件簿の第二弾だ。前作『壁から死体?』よりも密度が濃い。
降霊会中のテーブル上にナイフで刺された死体が出現。しかも遺体周囲には大鴉の羽根が散乱していた。しかし捜査で、被害者は事件直前九十キロも離れた町にいたと判明。大鴉に化けて飛んで来たのだろうか?
著者の古典本格ミステリ趣味が半端ではない。ディクスン・カー偏愛も相変わらず。加えて今回は日本の本格ミステリへの言及が多い。読書室には『八つ墓村』の鍾乳洞を模した通路があり、『占星術殺人事件』の記号を付けた装飾も並んでいる。しかも犯人当て場面の雰囲気について、日本ミステリファンの登場人物が主人公に、「ポアロ風ではなく、控えめな金田一耕助の空気感が望ましい」とアドバイスまでする。もはや横溝正史はグローバル・スタンダードなのだ。
コージー物のお約束、美味しそうなインド料理も登場する。「あんずたけのグリル包子」「カルダモン風味チョコチップ・スコーン」。詳細は不明だが、インド料理とメキシコ料理の合体メニューというのもあるらしい! どんな味なの!?
最後にオマケを。『選んで、語って、読書会1』(有栖川有栖・北村薫・宮部みゆき編/創元推理文庫)に再録されたジョン・オハラの短編「さようなら、ハーマン」(浅倉久志訳)がすばらしい。劇的かつ悲哀の極致。胸に沁みます。
(本の雑誌 2025年6月号)
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- ●書評担当者● 小山正
1963年、東京都生まれ。ミステリ・映画・音楽に関するエッセイ・コラムを執筆。
著書に『ミステリ映画の大海の中で』 (アルファベータブックス)、編著に『バカミスの世界』(美術出版社)、『越境する本格ミステリ』(扶桑社)など。- 小山正 記事一覧 »