『セヘルが見なかった夜明け』に胸をえぐられる!
文=林さかな
東京は下北沢にある「B&B」は、地方にいる私も何度かイベントで訪れている書店。ここで始まった取組はオンラインストアでデジタルプレスを扱うこと。外出自粛で通販の需要が増えている中でデジタルだと物理的な流通業者を介さずに読者の手に渡る。おもしろいと思い、早速購入したのが、ウルフの初邦訳作品、『おばあさんとオウム──本当にあった物語』(片山亜紀訳/ヴァージニア・ウルフ/B&B)ダウンロードする形式はPDF。アマゾンのKindleに落として読めるかどうか試したのだが、ところどころ抜けてしまうので、素直にPDFの形式で読んだ。
ウルフが甥っ子のために書いた小作品で、邦訳はないが絵本にもなっている話。貧しい生活をしていたゲイジおばあさんのところに、亡くなった兄の遺産がころがりこんでくるはずだったのが、手にできたのはオウムのジェイムズだけ。がっかりしたゲイジおばあさんだが、その後にとんでもないハプニングが起こるという内容で、気持ちのいいラストが楽しめる。B&Bのオンラインストアは、少しずつラインナップが増えているので、他の作品も含めてぜひのぞいてみて欲しい。
トルコの政治家が獄中で執筆した初短篇集『セヘルが見なかった夜明け』(セラハッティン・デミルタシュ/鈴木麻矢訳/早川書房)は美しい話や胸が痛くなる話、滑稽話など十二篇おさめられている。
「歴史の如き孤独」は父と娘の話。娘は父親との関係は淡泊だったと思っていた。母親が亡くなったあとは仕事に没頭し、結婚も電話報告のみ。結婚したパートナーは彼女同様本好きで、二人は忙しい中、気に入った本を共有するのを楽しみとしていた。その一冊が『歴史の如き孤独』。二人が夢中になったこの本によって父親との関係は新たなフェーズに入っていく。その過程が読ませるのだ。
表題の「セヘル」は胸がえぐられる。工場の同僚に恋したセヘルの悲劇は一つではなく、更にある。無知から起こるこの出来事は遠い国の話だけではない。
読み終わってからもセヘルの存在感がずっと残る。
『無の国の門 引き裂かれた祖国シリアへの旅』(サマル・ヤズベク/柳谷あゆみ訳/白水社)も厳しい内戦が書かれた記録小説。ノンフィクションではないのだが、書かれていることは内戦下のシリアの現実だ。
爆撃を受けたところで調査するために著者ヤズベクは、その家の女性に話を聞く。近くではまだ爆撃が続き、すさまじい轟音が響く中、「神さまにかけて誓う? 私が言うことを、世界中に伝えてくれるって」と娘はノートにつけた日記を声に出して読む。語られるのは、何月何日には六人の娘と若者とその奥さんがさらわれて殺されたこと、同じ日には、オリーブの収穫に出かけた先で別の家族、奥さんと二人の息子が殺されたこと。綴られている中で人が死なない日はない。地獄だ。最後まで読んだ娘はこれで自分たちの物語が世界の人に知ってもらえるのねと安堵する。
また別の女性はこう語る。「そう、私は戦争と爆撃の下で暮らしているわ。でも、私は娘さんたちに教えたいのよ、どうやったら美しく、自分の人生を生きていけるのかを。私たちは結婚をして子どもを産んで、自分たちの人生を築きたい。死に屈するなんて嫌なの」そうして、延々と続く爆撃の下で、英語やフランス語、文盲撲滅の教育、コンピュータ教育をしていくのだ。まだこの社会でやれることはあるという確固たる意志がなみなみならぬ言葉からにじみ出る。その強さにこちらが力をもらった。小説から聞こえる強い声がまさしく血肉となる。
彼らの話に耳を傾けるように本書を読んだ。たくさんの人にこの話を聞いて欲しい。
『ボヘミアの森と川 そして魚たちとぼく』(オタ・パヴェル/菅寿美、中村和博訳/未知谷)はチェコの作家オタ・パヴェルの自伝的短篇集。幼年期、青年期、回帰と時代ごとの三つの章立てに全部で二十三の短篇がおさめられている。
父親レオの影響で幼少期から釣りの魅力にとりつかれたオタ。兄と共に、釣り名人のプロシェクから手ほどきを受け、魚釣りに没頭する。しかし、一九三九年、父親がユダヤ人であったことから、兄二人と父は強制収容所へと送られる。オタが逃れたのはユダヤ教の出生記録簿に登録されなかったからとされている。
どの短篇にも魚の話が語られ、オタは釣りをしている。楽しみのためにしていた幼年期の釣りを経て、戦時は兄と父親が強制収容所行きで不在なため、オタは母親と食いつなぐ手段として切実な魚釣りをする。
中国のことわざが紹介される。「一時間幸せでいたければ、酒を飲め。三日間幸せでいたければ、結婚しろ。生涯幸せでいたければ、釣りをやれ。」
背景に重たい戦争がある時でも静かなユーモアをちりばめ、生涯においての釣りの幸福を叙情的に描いたこの作品は地元チェコでいまも愛読されているという。
本年四月二日に発表された、テジュ・コールの最新短篇「苦悩の街」(木原善彦訳/『新潮』六月号)はいま是非読んで欲しい。
新型コロナウィルスが題材に描かれ、皮肉にも世界で一斉に起こっている疫病が、小説の共通プラットホームとなり、描かれている世界との時差をなくしている。
「旅人」が到着した都市は、人と人が接触すると伝染する疫病で、市民は皆距離を置いた状況を受け入れ生活をする。常に危険と隣り合わせでいながら、静かで独特な時間をもつこの都市がとても身近に感じる。
(本の雑誌 2020年7月号掲載)
- ●書評担当者● 林さかな
一九六七年北海道生まれ。カナダ、京都、名古屋で生活。いまは東北在住。好きな詩:エミリー・ディキンソン「真実をそっくり語りなさい、しかし斜めに語りなさい――」
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