苦しさの奥から力が湧き上がる『全部ゆるせたらいいのに』

文=北上次郎

  • 幻綺行 完全版 (竹書房文庫)
  • 『幻綺行 完全版 (竹書房文庫)』
    三蔵, 日下,順彌, 横田
    竹書房
    1,320円(税込)
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  • 雪国を江戸で読む 近世出版文化と『北越雪譜』
  • 『雪国を江戸で読む 近世出版文化と『北越雪譜』』
    森山 武
    東京堂出版
    3,960円(税込)
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 なんだか辛い話だ。息苦しくなるような暗い話だ。でも、どんどん読み進んでいくと、その辛く苦しい話のずっと奥の方から静かに少しづつ、力とでも名付けたいものが、ゆっくり浮上してくる。一木けい『全部ゆるせたらいいのに』(新潮社)だ。

 たとえば、幼い千映を連れて家族で動物園に行ったとき、夫と千映を写真に撮るくだりがある(この章の語り手は、千映の母親だ)。そこにこうある。

「今日の出来事を、千映はきっと忘れてしまうだろう。アルバムに挟まれた写真を見て、遠い昔に三人で動物園に行ったことを知るだけだろう」

「けれど、会話や目にしたもの、父親に抱きしめられた感触は、意識の深いところにしっかり根を下ろし、千映を大きく豊かにする糧となるだろう」

 糧となっていないことを、私たちはすでに知っている。なぜならその前の章が、酒に溺れる夫宇太郎に振りまわされる若い母親千映の苦悩を描く章だからだ。ここで父親は、朝から飲んだくれている存在として回想されている。

 千映の母親の章だけを読むと、酒飲みの父親など存在しなかったようだが、こういう構成が秀逸だ。続く章ではその父親が語り手になるが、酒は飲んでも家族に迷惑はかけなかった、と本人が考えていることがわかる。ようするに、当人にはわかってないのだ。時に記憶が抜け落ちることも、重要なことではないと本人は考えている。この母と父の視点の挿入がラストで効いてくる。

 そしていよいよ圧倒的な迫力で読ませる最終章に突入する。語り手はふたたび千映。父親の死後の日々を描く章だが、そこに回想がどんどん挿入される。アルコール依存症の父親にいかに振りまわされたのか、そのディテールが圧巻だ。

 野尻克己『鈴木家の嘘』(ポプラ社)にも、ぐんぐん引き込まれた。長男浩一が自殺したことを、家族が口裏を合わせて母親に隠す話である。自殺した長男を発見したのは母親なのだが、ショックのあまり記憶を失っている。そこで長男はアルゼンチンにいることにして、贋の手紙を出すことにする。当然母は返事を書くことになるが、その往復書簡に並行して語られるのは、自死遺族が自分の体験を語り合う「分かち合う会」に参加するさまざまな人たちの事情だ。娘に自死された日比野さつきを始め、傷をかかえたまま生きている人間の、自分が助けることが出来たのではないか、なぜ出来なかったのかという悲痛な叫びが胸に残る。

 特に、この会に何度通っても何も発言しなかった浩一の妹富美が、ラスト近くに感情をぶつけるシーンがいい。

 野尻克己は「鈴木家の嘘」で映画監督としてデビューし、同映画で数々の賞を受賞した、と奥付の著者紹介にある。小説は今回が初ということだが、今後はこちらにも期待したい。

 亀和田武『夢でもいいから』(光文社)と、日下三蔵編・横田順彌『幻綺行 完全版』(竹書房文庫)については他で書評を書いたのでここでは短く。気になったことだけを書いておく。

 まず前者は、雑誌掲載時にすべてを読んでいるが、覚えていないこともあって、それが二〇一五年四月号掲載の「カプセルホテルで逃亡犯のように息を潜めた日々」の回。これを読むと、嶽本野ばら『破産』(小学館文庫)が読みたくなるのだ。おお、急いで読もう。

 後者は、日下三蔵の編者解説によると、この「中村春吉秘境探検記」には長編が二作あって、それが『大聖神』と、『日露戦争秘話 西郷隆盛を救出せよ』。日露戦争と西郷隆盛? なんだそれ? こんなに面白そうなのにどうして未読だったのか。無性に読みたい。ぜひこの二長編の復刊もお願いしたい。

 興味深く読んだのが、森山武『雪国を江戸で読む』(東京堂出版)。「近世出版文化と『北越雪譜』」、という副題に惹かれて読み始めた。

『北越雪譜』は、「越後を舞台に雪に関係する様々な話を挿絵入りで伝える本」だ。岩波文庫の表紙には「江戸期の雪国百科全書」とある。刊行は天保八年(一八三七年)だが、岩波文庫に入ったのが昭和一一年。令和二年六月には第七一刷が発行されたというから、ロングセラーだ。

 作者は越後の鈴木牧之。本書の著者紹介を借りれば、「牧之は現在の新潟県南魚沼市塩沢で生涯を過ごした、いわゆる地方文人。江戸時代後期には日本各地に普く存在した、家業のかたわらに文芸での自己実現をも追い求めた地域の文化的リーダーのひとり」である。本書にも何度か登場する大阪の木村蒹葭堂を思い浮かべればいい(蒹葭堂は超大物すぎるから比較の対象にはならないが)。

 登場するのは、滝沢馬琴、山東京伝、京伝の弟である京山。彼らと何度も手紙をやりとりし、原稿を送り、出版にこぎつけるまでの過程が、克明に描かれるのである。その費用が幾らかかったのか、というところまで細部に入り込んでいくから圧巻だ。もちろんすぐには成就しない。何度も挫折し、暗礁に乗り上げ、気の遠くなるような紆余曲折のあげく、とうとう発刊されるまで、江戸期の出版事情を詳細に掘り下げながら紹介していくのだ。

 江戸で三〇〇部、京都で二〇〇部、と決まったから安心だという馬琴の手紙(これは馬琴の本の初版部数。これが全部売れてようやく版元の利益が出る)には、自分の本が売れるか売れないか相当に気を使っていたことがうかがえる。馬琴ですらこうなのだから、「素人の本」を出版するのは大変だ。

 岩波文庫をすぐに買いに走った。『北越雪譜』を読んでなかったのだ。私には未読の書が多すぎる、と反省するのである。

(本の雑誌 2020年9月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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