情報てんこ盛りの痛快業界小説、久坂部羊『MR』がいいぞ!

文=北上次郎

  • わたし、定時で帰ります。: ライジング
  • 『わたし、定時で帰ります。: ライジング』
    朱野 帰子
    新潮社
    1,540円(税込)
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  • 金の角持つ子どもたち (集英社文庫)
  • 『金の角持つ子どもたち (集英社文庫)』
    藤岡 陽子
    集英社
    660円(税込)
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 久坂部羊『MR』(幻冬舎)が面白い。MRとは、医療情報担当者のことで、つまりは製薬会社の営業である。この仕事がいかに大変なものであるかは、鳴海章『路地裏の金魚』という小説に書かれていたので、まだ覚えている。八年前に文庫書き下ろしで刊行された鳴海章の長編は、四二歳の主人公が三四年前にタイムスリップする話で、飲み屋のトイレから出てくると、カウンターに若き日の父親が座っているし、幼いときに憧れていた幼稚園の裕子先生とばったり会うし、という小説で、私好みの小説だった。おお、再読したい。

 その『路地裏の金魚』の主人公が製薬会社の営業で、昔の営業の実態はそれはもうひどいものであったと回想する場面が出てくるのだ(当時はMRではなく、プロパー)。セクハラ、パワハラのオンパレードなのでここに具体例を紹介するのは控えたい。あまりにひどいので、業界全体が自粛してMRという制度を作ったということらしい。

 その製薬業界の営業競争の最前線を描くのが本書『MR』で、読み始めたらやめられなくなった。途中までは連作ふうにさまざまな医者、営業マンなどの事例を紹介していくが、途中からライバル会社のMRが登場すると、競争相手にいかに勝つか、という話になっていく。さらに、ライバル会社に勝ってもまだ話が終わらず、今度は内部の敵と戦う話になるのだ。

 登場人物の造形が類型的である、との指摘を受けるのは容易に想像できるが、この手の小説にそういうことを求めるのは酷というものだ。情報がてんこ盛りで、話が痛快で、なによりも面白い。通俗小説の美点がここにはぎっしりとつまっている。それで十分ではないか。この作者の他の小説も読みたくなってきた。

 ビジネスの世界を描いたものとしては、朱野帰子『わたし、定時で帰ります。ライジング』(新潮社)もある。こちらはシリーズの第三弾で、ますます面白い。物語に迫力が漲っているし、深みも増している。このシリーズ、第一作のときは「お仕事小説」と誤読してしまったが、その仕事の内容がほとんど語られない「お仕事小説」はありえない。今回は仕事の内容が少し出てくるが、一貫して本質は、その内容ではなく、働くということは何か、だ。労働論だ。そのモチーフがどんどん強まっている。明治一九年に製糸工場で起きた日本最初のストライキのことが何度も登場すること。ヒロインの母親が家出して、家庭内ストライキが勃発するというわき筋の展開も、その方向を示唆している。

 相変わらずうまいなあと唸るのが、篠田節子『田舎のポルシェ』(文藝春秋)。三編を収録した中編集で、二人の初老男が北海道にでかける「ボルボ」、古希を迎えた女性が記念にDVDを作ろうとする「ロケバスアリア」、この二編もなかなかに味わい深いが、好みで選べば表題作。岐阜から東京の八王子まで、実家の米を引取にいく女性を描く一編だが、知人に紹介されたドライバー瀬沼のキャラがいいのだ。高速道路で絡んできた男を逆に恫喝するような男だが、「離婚に、実家の商売の倒産に、取りあえず人生の試練を経てきているにしては、屈託も、そこから何かを学んだ様子もない」男だ。台風が迫ってきて、予定をどんどん変更せざるを得なくなるスリリングな展開もいいが、「苦労に懲りることもなければ、それを自慢することもない。そこから学習することもない。苦労を苦労と自覚することもなく乗り越えてきてしまった」瀬沼のキャラがこの中編に奥行きをもたらしている。意外な着地もよく、読み終えるのがもったいない一編だ。

 藤岡陽子『金の角持つ子どもたち』(集英社文庫)は、中学受験を描く長編。作中に中学の入学試験の問題がいくつか出てくるが、おお、こんな難しい問題を小学校を出るか出ないかくらいの子らが解くのか。私、全然わからない。

 これを解けたところでその後の人生に何の役に立つのか、という疑問が生じるのは容易に想像できるが、役に立つか立たないか、ということではないのだ──とこの物語は主張する。何事かに夢中になって挑戦することが大切で、極限まで努力し続けた子どもたちには二本の硬く、まっすぐな角が生えてくる。自分にはその角が見える、と予備校講師の加地は言うのだ。これはそういう物語で、主役の母子だけでなく、加地の弟などのわき役たちの造形がいいので、読み始めたら一気読みだ。

 今月の最後は、夢枕獏『白鯨』(KADOKAWA)。これは、ジョン万次郎が救出された船の船長が、メルヴィル『白鯨』の主人公エイハブだったらどんな物語が始まっただろうか、という想定で書かれた長編である。

 周知のように万次郎は、ハウランド号に救出されてアメリカに向かったというのが史実だが、その前に、エイハブ船長が指揮するピークオッド号に救出され(その船には若き日のメルヴィルも乗っていた!)、そこでモービィ・ディックと死闘を繰りひろげたあとで、ハウランド号に改めて救出された、というのだ。かくて、迫力満点の海の格闘が展開する。
 ここでは一点だけ。ラスト近く、モービィ・ディックが船に接近してくるシーン。船が鳴るのだ。おんおん、と。海底から近づいてくるものに反応し、共鳴し、海の楽器のように鳴るシーンが素晴らしい。おんおん。こういう肉感的な描写が屹立している。いかにも夢枕獏だ。

 本書とは関係のないことを最後に少し。キマイラはいったいいつ終わるのか。キマイラ論を早く書きたいので、どんなに遅くてもあと一~二年で終わってくれないか。これはお願い。

(本の雑誌 2021年7月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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